JK・ローリング
何に生まれるかよりも何になるかの方がはるかに大切です。
J・K・ローリングは、1965年7月31日に、イギリスで生まれました。
子供時代から物語を書くことが好きだったJ・K・ローリングの処女作は、6歳の時に書いた『Rabbit』という、うさぎの話でした。
エクセター大学でフランス語と古典を学び、その後、秘書の仕事や出版社での仕事を経験します。
J・K・ローリングの代表作である『ハリー・ポッター』が生まれたきっかけは、列車の車窓からみた景色でした。
列車の車窓から、田園風景の中にいる牛たちをじっと眺めているうちに、
突然、目の前に「ハリーや魔法学校のイメージ」が浮かんできたと言います。
自宅に帰ったローリングは、列車で考えた設定を思い起こしながら一冊のノートに書き起こしていきました。
これが、ハリー・ポッターの最初の草案です。
今やイギリスを代表するファンタジー作家となり、大きな成功を収めたJ・K・ローリングですが、
当時はさまざまな困難の中にありました。
もっともローリングに深刻な影響を与えたのが、母アンの死です。
その死は、執筆中だったハリー・ポッターの方向性にも影響を及ぼします。
ハリー・ポッターは、子供向けのファンタジー作品でありながら「死」というテーマで書かれていることで有名なのですが、
母の死こそ、そのテーマが生まれるきっかけになったのだとローリング本人は語っています。
私は本の中のような魔法を信じていません。
ですが良い本は読んだ人に素敵な魔法をかけてくれると信じています。
1995年、完成した原稿は12社もの出版社に提出されましたが、
長編すぎるという理由から、どの会社も出版しようとはしませんでした。
そんな中でブルームズベリー出版社が出版を決め、1997年7月26日にイギリスで出版されます。
出版されてからは一気に話題となり、
たった3日後に行われたアメリカでの出版権をめぐるオークションでは、つぎつぎと額が釣り上がり、約10万ドルもの値がつきました。
二作目である『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の出版されて6日後には、
児童書としては英国で初となるベストセラーリストの1位を獲得するなど、人々を驚かせるような功績を残したのです。
その後、多くの言語に翻訳され、
「ネスレ・スマーティーズ賞」や「ブリティッシュ・ブック・アウォーズ」など、数々の文学賞を受賞しました。
ハリーポッターの世界的な大ヒットや映画化などを受け、億万長者となったローリングの年収は、日本円で約182億円と言われ、
「歴史上最も多くの報酬を得た作家」とされています。
人生において情熱ほど大切なものはないの。
1965年7月31日 イギリスのグロスタシャー州に生まれる
1995年 エディンバラにあるカフェThe Elephant House で『ハリー・ポッターと賢者の石』を制作
1996年 ブルームスベリー出版社から『ハリー・ポッターと賢者の石』出版されることが決定
1997年 イギリスで『ハリー・ポッターと賢者の石』が発売されベストセラーとなる
1998年 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』出版
1999年 『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』出版
デヴィッド・ハイマンとワーナー・ブラザースとの映画化権の契約をする
2000年 『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』出版
英国勲功章 (OBE) を受章
2003年 『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』出版
2005年 『ハリー・ポッターと謎のプリンス』出版
2007年 『ハリー・ポッターと死の秘宝』出版
2012年 『カジュアル・ベイカンシー 突然の空席』出版
2013年 『カッコウの呼び声 私立探偵コーモラン・ストライク』出版。(以下、ロバート・ガルブレイス名義)
2014年 『カイコの紡ぐ夢 私立探偵コーモラン・ストライク(仮)』出版
2015年 『Career of Evil(原題)』出版(『コーモラン・ストライク』シリーズ第三作)
2016年 ハリー・ポッターシリーズのスピンオフ映画『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』で脚本を担当