一人一人が持っている才能を正しく理解し、
最高のパフォーマンスを発揮する社会を作る

一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

フェリックス・メルデルスゾーン
ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト。
出生国:ドイツ
誕生日:1809年02月03日
命日:1847月11月04日

フェリックス・メルデルスゾーン

旅を思い出すことは、人生を2度楽しむこと

ピアノの名曲のひとつ「春の歌」の作曲者として知られる
フェリックス・メルデルスゾーン。

今回は早熟の天才と呼ばれたメルデルスゾーンの生涯をお伝えすると共に、
「春の歌」に代表する彼の名曲たちをご紹介します。

 

【「春の歌」で知られるメルデルスゾーンの生涯】

「春の歌」の作曲者で知られるフェリックス・メルデルスゾーンは
1809年2月3日、ドイツ北西部の工業都市ハンブルクで誕生しました。

彼は著名なユダヤ人哲学者である祖父と銀行家の父を持ち、
裕福な家庭で育った彼は幼少の頃から最高の教育の恵まれ
音楽の才能を育んでいきます。

また両親が自宅で開催するサロンには
多数の画家、音楽家、科学者が招かれていたこともあり、
メンデルスゾーンは音楽の才能だけでなく知性も兼ね備えていました。

そんな彼は20歳前にして作曲家・指揮者・演奏家としての
才能を認められ活躍するようになります。

そして20歳の頃、自身が監督となり死後歴史に埋もれていた
バッハの「マタイ受難曲」を自らが指揮を務め、再演しました。

この公演は大成功で彼の名を更に広めると共に、
バッハの知名度も大きく上げることになりました。

若くして音楽家として有名なった彼は
その後も音楽家としての活動を続けていき、
ピアノ曲として有名な「春の歌」など
私たちにも聞き馴染みのある曲を作曲します。

それだけでなく34歳の時にはライプツィヒ音楽院を設立し院長を務め、
演奏者の育成にも取り組みます。

そんな順風満帆な人生を送っていたメンデルスゾーンですが
"慕っていた姉のファニーの死により自身も体調を崩し、
"
38歳の時脳卒中で亡くなりました。

若すぎる死を遂げたメンデルスゾーンですが、
彼の作曲した「春の歌」や「夏の夜の夢」などは
今なお名曲として受け継がれています。

存分にアラを探してこき下ろしてくれたまえ。
どこが気に入ったかなんて話は聞きたくない。
気に入らないところだけを教えてほしいのだ

【「春の歌」に代表するメルデルスゾーンの名曲たち】

メンデルスゾーンが自ら作曲し出版した曲はそんなに多くありません。

理由は自身が作品から厳選していた為だと言われています。

彼の死後、周囲の人々によって出版されていなかった作品が
多数出版されました。

そんなメンデルスゾーンの代表作の中から3つご紹介します。

『無言歌集』
有名な「春の歌」がある無言歌集は、
ピアノ独奏のための作品集で全48曲から成っています。

この作品は生涯のほとんどの期間に渡って作曲したもので
年数がはっきりとしている曲がほとんどありません。

またメンデルスゾーンが自身で表題をつけた曲はわずか5曲で、
大半は楽譜出版社がつけました。

あの「春の歌」も楽譜出版社が
楽譜の冒頭にある発想標語からつけたものです。

『夏の夜の夢』
シェイクスピアの戯曲『夏の夜の夢』を元に
演奏会用序曲および劇付随音楽として17歳の時に作られました。

序曲 ホ長調 作品21は元々は姉とのピアノの連弾用に作ったものを
オーケストラに用に編曲したそうです。

この作品の中の1曲「結婚行進曲」は結婚式ソングとして
定番でありご存じの方も多いですね。

『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』
三大ヴァイオリン協奏曲と呼ばれる『ヴァイオリン協奏曲 ホ短調』は
1844年に完成したこの曲はユダヤ人ヴァイオリニストの
フェルディナンド・ダヴィッドのために作曲しました。

バランスのとれた形式と美しい旋律であり、
ドイツ・ロマン派音楽を代表する名曲です。

「春の歌」以外にも評価の高い名曲が何曲もあるメンデルスゾーンは
天才と呼ぶにふさわしい偉大な音楽家です。

 

【まとめ】
・フェリックス・メルデルスゾーンは
ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニスト
・環境に恵まれた早熟の天才音楽家
・代表作は「ヴァイオリン協奏曲」『夏の夜の夢』『フィンガルの洞窟』「無言歌集」など
・ライプツィヒ音楽院の設立する

フェリックス・メルデルスゾーンは
若くして名声を手にし、19世紀の音楽界に大きな影響を与えました。

美しさとは、多様なものが一つにまとまっていることである。

1809年2月3日 ドイツ北西部の工業都市ハンブルクで誕生
1811年 ベルリンに移り住む
1815年 母からピアノを学び始める
1817年 カール・フリードリヒ・ツェルターに作曲を学ぶ
1826年  シェイクスピアの戯曲を題材とし「夏の夜の夢 序曲」を作曲
1829年3月11日 自ら監督しバッハの「マタイ受難曲」の公開演奏を行う
        ピアノで通奏低音を担当しながら指揮し公演は大成功する
1835年 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任
1841年 ベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任する
1843年 自ら設立資金繰りをし、ライプツィヒ音楽院を開校。院長となる
1847年5月 慕っていた姉ファニーの死が死去。悲嘆するあまり神経障害を起こす
   11月4日 回復傾向に見られたが、前日に意識を失いライプツィヒで死去

アクシスプロファイル簡易診断で、
あなたのスピリットプロファイルを明らかにしてみましょう。
無料で受講