ヤーコブ・グリム
嘘をずっと押し通そうとするなら、記憶力がよくなけりゃダメだ。
幼いころ何度も読んだ「グリム童話集」。
私たちにとって馴染みのある作品を編集し世に広めたのが、
グリム兄弟です。
今回はグリム兄弟の兄である
ヤーコブ・グリムについてお伝えしていくと共に、
名作揃いのヤーコブ・グリムの作品の一部もご紹介します。
【グリム兄弟で知られるヤーコブ・グリムについて】
グリム兄弟のグリム童話と言えば誰もが知っているといっても
過言ではないほど有名な童話ですよね。
グリム兄弟の兄であるヤーコブ・グリムは
大学生の時、法学の研究をしていくうちに
ドイツの古い文献の研究に興味を持ちます。
そしてその後国王の私的図書館員としての仕事に就きながら
ドイツ語に関する研究に時間を費やしていくのです。
ヤーコプは言語学者として
『ドイツ語文法』を著作するなど
言語学者として大きな功績をあげます。
それだけでなくヤーコプはウィーン会議に出席し、
ヘッセン選帝侯国の秘書として働くなど
政治的な活動もしていました。
一時期は外交官としても活躍していたヤーコプですが
30歳の時、言語・文学学研究ため政治の世界を離れます。
そして弟ヴィルヘルムと同じ図書館司書として働きました。
主席図書館司書の後任の座を望んでいましたが叶わず、
新たな地位を求めたヤーコプはゲッティンゲン大学で
教鞭をとることになります。
しかし1837年の「ゲッティンゲン七教授事件」で追放されてしまうのです。
そんなヤーコプですが、55歳の時ベルリン大学に招かれ
晩年まで約20年間教鞭をとり続けました。
そこでグリム兄弟は『ドイツ語辞典』編纂に携わります。
そして『ドイツ語辞典』の「実り」 (Frucht) のページを書き終えた
1863年9月20日。ヤーコプ・グリムは78歳で生涯を終えました。
幸福は神とともにあること、それにいたる力は魂の響きなる勇気。
【名作揃い!ヤーコブ・グリムの代表作3選】
グリム兄弟の兄ヤーコブ・グリムの代表作は
グリム童話だけではありません。
彼は優れた言語学者としていくつもの著書を出しています。
今回はヤーコブ・グリムの代表作の中から3つご紹介します。
『ドイツ語文法』
1819年から1837年に書かれた著書です。
ゲルマン言語学を開拓したこの著書は、
言語学者としてのヤーコプの功績を知る上で欠かせない一作になっています。
ヤーコプがカッセルの図書館員時代から書き始め、
完成まで19年間もの年月がかかりました。
後に「グリムの法則」と呼ばれるゲルマン語の子音交替の法則は
この音論に記されています。
『ドイツ神話学』
1835年に著作した
現代に至る比較神話学や民俗学の基礎を築いたと言われる著書です。
『ドイツ語辞典』
1854年グリム兄弟によって始められた膨大なドイツ語大辞典です。
全16巻32冊に及びます。
ルターからゲーテに至るまでの
著作から集めてきた近代高地ドイツ語の語彙のすべてを
網羅しようとしたのもので、
グリム兄弟の生前にはFの途中までできています。
膨大な辞書の残りはグリムの死後100年程たった1961年、
冷戦時代の東西両ドイツの協力を得て完成されました。
ヤーコブ・グリムは優れた言語学者として
いくつもの著書をだし、ドイツ語の語学・文学研究に
貢献したのです。
【まとめ】
・ヤーコブ・グリムはグリム童話でお馴染みのグリム兄弟の兄の方
・ドイツの言語学者、文学者、法学者
・政治活動を一時期行っていた
・ドイツの文献学、古代史研究の礎を築く
ヤーコブ・グリムは有名なグリム童話の編集だけでなく、
優れた言語学者としてドイツ語の研究に大きな功績を残したのです。
老人は、静かな哀しみとともにみずからを振り返ることを許された人々であり、
蒸し暑い昼のあとにおとずれた気分爽快な涼しい夕べのなかで、
いわば玄関前のベンチに腰かけて過ぎし人生を概観することを許された人々なのである。
1785年1月4日 ドイツで誕生。
1798年 弟ヴィルヘルムとカッセルのリツェウムに入学する
1802年 マールブルク大学に入学する
フリードリヒ・フォン・サヴィニーの元で法学を学ぶ
1805年9月、カッセルの実家に戻る。
兵学校で働くが、1年も経たず職場解散の為、職を失う
1808年 母が死去
ジェローム王の私的図書館員として働き家族を養う
1809年2月 国家顧問 に任命される
1806年 以降、弟ヴィルヘルムと童話の聞き取り調査を行い、清書し、編集し始める
1803年 ヘッセン選帝侯国の再建によりジェローム王の私的図書館員の地位を失う
復帰した選帝侯の外交スタッフの中に引き続き地位を与えられる
1814年 ウィーン会議でヘッセン選帝侯国の特使秘書として活躍する
パリで奪われた芸術品のヘッセンとプロイセンへの返還交渉に短期間関わる
スラヴ語の勉強を始める
1812年『グリムの子どもと家庭の童話』を弟共に著作する(~1815年)
1815年 外交官の職を離れる
1816年 図書館の次席図書館司書となる
1819年 『ドイツ語文法』を著作する
1822年 第二版『ドイツ語文法』に長大な音論を追加する
1830年 ゲッティンゲン大学から教授での招聘を受ける
1837年 ゲッティンゲン7教授事件で連座し地位を奪われ、追放処分を受ける
1838年 『ドイツ語辞典』を弟共に著作する(~1854年)
1841年 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の招きを受けベルリンに移る
プロイセン学士院の一員に推挙され、ベルリン大学で法学の講義を担当する
その後20年、ベルリン大学で教鞭を採りながら弟と共に『ドイツ語辞典』 の編纂に携わる
1848年 フランクフルト国民議会で議員として名誉席を与えられる
1863年9月20日 死去