オードリー・ヘップバーン
控え目であるためには、その前になにかに立ち向かうことが必要です。
永遠の妖精と呼ばれた奇跡の女優、オードリー・ヘップバーン。
伝説級といえる彼女の美しさと生き様。
そして、数々の名作での優れた演技は、
今もなお人々の心に残っています。
そんなオードリー・ヘップバーンの魅力を、
彼女の名言とともにご紹介していきます。
【オードリーヘップバーンが残した美しい名言たち】
オードリー・ヘップバーンは、
世界大恐慌真っただ中の1929年にベルギーで生まれます。
第二次世界大戦が終戦したのち、
20歳になったオードリー・ヘップバーンは
舞台女優としての道を歩み始めます。
女優としては無名だったオードリーが一躍スターとなったきっかけが、
あの名作『ローマの休日』です。
この作品で、オードリー・ヘップバーンは
アカデミー賞主演女優賞に輝きました。
人々の日常に触れて心身共に解放されていく「ローマの休日」の王女
運転手の娘がパリで洗練されて帰郷する「麗しのサブリナ」
花売り娘が社交界デビューする「マイ・フェア・レディ」など
見る人の共感を呼ぶ、女性の「ありのまま魅力」を表現する力に長けていたオードリーは、
あらゆる映画で主演の座を獲得。
美しさだけでなく、仕事に対して非常にひたむきな人物でもありました。
そんなオードリーは、
自分なりの美学を持っていたとされており、
その考えは、多くの名言に現れています。
「チャンスなんて、そうたびたび巡ってくるものではないわ。
だから、いざ巡ってきたら、とにかく自分のものにすることよ」
「不可能なことなどないわ。
Impossible(不可能)という単語自体に、I’m possible(私にはできる)と書いてあるのだから」
「いわゆる天賦の才に恵まれていると思ったことはないわ。
仕事を心から愛して最善を尽くしただけよ」
ハリウッドの黄金時代に活躍し、
美しい容姿と、愛らしい演技で世界中を魅了したオードリーヘップバーン。
その絶大な人気の裏には、
彼女なりの美しい信念があったと言えるでしょう。
美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。
美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい
【オードリーペップバーンの名言「美しい言葉」とは?】
オードリー・ヘップバーンは、
「美しい言葉」を使うことを特に意識していました。
その考えがわかる名言として、以下のようなものがあります。
「魅力的な唇のためには、優しい言葉を紡ぐこと。
愛らしい瞳のためには、人々の素晴らしさを見つけること、
美しい身のこなしのためには、決して一人で歩むことがないと知ること」
人の悪口を言わず
人の良いところに目を向け
一人で生きていけると奢ることはない。
オードリーの強く美しい心は、
彼女の人生の中で育っていったのかもしれません。
第二次世界大戦のさなか、全てを奪われ、
愛するもの同士が引き裂かれる、
残酷な現実を目の当たりにしたオードリー。
その経験があったからこそ、
気高く、聡明な人物として、
ハリウッド界で輝き続けることができたのでしょう。
晩年、オードリーはガンに侵され63歳の若さでこの世を去ります。
家族を何よりも大切にしたオードリーは、
死の数日前まで、悲しみに暮れる家族たちを気遣う声をかけ続けたと言われています。
【まとめ】
「永遠の妖精」と言われ世界中で愛されたオードリー・ヘップバーンは、
世代を超えた美しさで、今もなお多くの人々を惹きつけています。
しかし、それは、外見の美しさだけが理由ではありません。
第二次世界大戦での辛い経験に負けない、ポジティブさと、
女性としての芯の強さ。
そして、けっして努力を惜しまないその姿勢こそが、
人々を惹きつけてやまない、
オードリーの魅力を生み出していると言えるのでしょう。
成功は誕生日みたいなもの。待ちに待った誕生日がきても、自分はなにも変わらないでしょ。
1929年 ベルギーのブリュッセルで誕生
1934年 両親の別居。ロンドンの父親の元で生活
1935年 ロンドン郊外の私立寄宿学校に入学のため、父親の元を離れる。
両親がヒトラーと面会、父が行方不明になる
1938年 バレエを習い始める。両親が離婚する
1939年 第2次世界大戦勃発。
ヒトラーの侵略を恐れたオードリーの母に連れられ、オランダへ移住
1940年 ナチスによるユダヤ人の迫害が始まる
1941年 アルンヘム音楽学校でバレエの稽古を始める
1947年 「オランダの7つの教訓」で映画初出演
1952年 映画「Nous irons a Monte Carlo(モンテカルロへ行く)」公開。
1953年 主演作である「ローマの休日」がアメリカで公開される
映画のヒットにより、ヘップバーンカットが大流行
1954年 「ローマの休日」でアカデミー賞最優秀女優賞を受賞
1955年 「麗しのサブリナ」でアカデミー賞最優秀女優賞にノミネート
雑誌「スクリーン」で女優№1に選ばれる。
1956年 「戦争と平和」公開
1961年 主演作「ティファニーで朝食を」が公開
1962年 「ティファニーで朝食を」でアカデミー賞主演女優賞にノミネート
1963年 「シャレード」公開
1964年 「パリで一緒に」「マイ・フェア・レディ」公開
1965年 「マイフェア・レディ」がアカデミー賞12部門にノミネート
1966年 「おしゃれ泥棒」公開
1967年 「いつも二人で」公開
1968年 1月 メル・ファーラーと正式離婚
「暗くなるまで待って」でアカデミー賞主演女優賞ノミネート
1969年 10歳年下のイタリア人精神科医アンドレア・ドッティと再婚
1970年 次男ルカがスイス・ローザンヌで生まれる
1975年 9年ぶりの映画出演作「ロビンとマリアン」のロケに参加
1979年 兄アレクサンデルが亡くなる
1980年 父ラストンが亡くなる
1981年 「They All Laughed」公開
スイスで俳優ロバート・ウォールダーズと暮らし始める
1982年 日本のワールドのCFに出演
ドッティとの離婚成立
1984年 母エラ亡くなる
自伝「オードリー・ヘップバーン/映画に燃えたミュンヘンで「華麗なる相続人」のロケに参加。
1987年 TV映画「Love Among Thieves(日本題「おしゃれ泥棒2」)」に出演
1988年 ユニセフ親善大使となる
1989年 スピルバーグ監督の映画「オールウェイズ」に出演
1990年 ユニセフ慈善コンサートツアーに出演
1991年 大腸ガンの手術後、ユニセフの大使としてソマリアの難民キャンプを訪問
1992年 アカデミー賞授賞式にて、マザー・テレサの代理をつとめる。名誉アカデミー賞のプレゼンターとして出場
1993年 1月20日、スイスの別荘にて結腸ガンのため死去、永遠なる女神となる