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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

サラ・ブリードラヴ
奴隷家庭に生まれながら、アメリカで初の成功を納めた、アフリカ系女性起業家
出生国:アメリカ
誕生日:1867年12月23日
命日:1919年5月25日

サラ・ブリードラヴ

始めるのだと自分に言い聞かせてスタートを切ることができました。
だから座って機会が来るのを待っていてはだめです。
立ち上がって自分で機会を産み出さなければ!

わずか14歳で結婚し、17歳で出産。

20歳でシングルマザーとなったマダム・C.J.ウォーカーことサラ・ブリードラヴは、
貧困の中にいながら成功を掴み取った人物として知られています。

リンカーンが奴隷解放宣言を行ってまもない1867年にサラは生まれました。

幼い頃に母をコレラで亡くし、父も間も無く亡くなってしまいます。

サラの不幸はここだけに留まらず、
14歳で結婚した夫すらも、サラが20歳の時に亡くなってしまいました。

この時、サラの娘レリアは当時まだ2歳でした。

幼い娘を育てるため、どうにかして仕事を探す必要があったサラは、
セント・ルイスの理髪店で洗濯婦として働くこととなります。

貧さにあえぎながらも「お金さえあれば、娘に十分な教育を受けさせることができる」と信じ、
身を粉にして働き続けました。

成功に王道などありません。
もしあれば成功などできなかったでしょう。
私が成功できたのは、勤勉に働き、徹夜もいとわなかったからです。

そんなサラは、ある問題に悩んでいました。

使っていた石鹸が原因で、自身の髪の毛にひどいダメージを受けてしまったのです。

当時、貧しい家庭で使われていた石鹸には「苛性アルカリ溶液」と言われる、
現在は劇薬に指定されている物質が含まれていました。

この苛性アルカリ溶液は肌にダメージを与えることで知られており、
この成分のせいでサラの髪の毛はボロボロになってしまったのです。

自分以外にも同じ悩みを持つ女性がいるに違いないと思ったサラは、
理髪店を所有していた兄弟からヘアケア法を学び、
その後、自身でも美容院を経営するようになります。

1890年代になると、髪を直毛にする方法を開発。

その結果、多くの利益を手にすることとなりました。

さらに自身の会社である「マダム c. j. ウォーカー製造会社」を設立し、
黒人女性向けの美容品やヘア製品の販売を開始。

当時のアメリカは、奴隷解放宣言がされたとはいえ、
まだまだ黒人の地位は低く、さらに女性の身で成功するのはとても難しいものと考えられていました。

しかし、サラは洗濯婦と言う身から、一代で会社を立ち上げ、
アメリカの黒人女性で最初の大富豪と呼ばれるまでの人物となったのです。

サラはその後、美容学校を設立する一方で、
黒人の地位向上のための活動を精力的に続けていたと言われています。

どんな製品を使っても、髪の毛が抜けるのは止めることはできませんでした。
自分の姿が恥ずかしくなって、神に助けを求め、祈りをささげました

1867年12月23日 ルイジアナ州に生まれる
1872年 母ミネルバが死去
その後、父も亡くなり7歳で孤児となる
1882年 モーゼスマクウィリアムズと結婚
1885年 長女レリアが誕生
1887年 夫と死別
1888年 セントルイスに移住。洗濯婦として働き始める
1905年7月 コロラド州デンバーに移住
1906年 チャールズウォーカーと再婚。
サラはマダムCJウォーカーとして知られるようになる
1908年 ペンシルベニア州ピッツバーグで美容室を開設
レリア大学を創設
1910年 インディアナポリスに事業を移転
マダムCJウォーカー製造会社の本社を設立
1912年 NNBLの年次集会で演説
1917年 『National Beauty Culturists』『マダムCJウォーカーエージェント慈善協会』を設立
1919年5月25日 腎不全と高血圧の合併症により死去。享年51歳

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