黒澤明
私は人を憎んでなんかいられない。
私にはそんなヒマはない。
世界的に最も有名な映画監督として知られる黒澤明は、
1910年に現在の現在の東京都品川区東大井で生まれました。
幼少期から父に連れられ、よく映画を観にいっていた黒澤は、
西部劇などの洋画を好んでいたと言われています。
小学校低学年の頃は気が弱くよくいじめにあっていた黒澤ですが、
担任だった立川精治の影響で、大きく変わることとなります。
立川が、黒澤の描いた絵をほめるという出来事により、
黒澤は絵を描くのが好きになり、成績もどんどん伸びてやがて級長にまでなりました。
黒澤は、立川を「生涯の恩師」と語っていたと言います。
中学卒業後も画家としての勉強を続けていた黒澤が映画界へと入ったのは、
1936年のことでした。
主に山本嘉次郎監督の元で助監督をつとめていた黒澤は、
山本からの助言のもと自らもシナリオを書き出します。
その時に書いた『達磨寺のドイツ人』は映画化こそしなかったものの、
評論家の間で話題を集め、この時から高い評価を得ていました。
自分の与えられた人生、何もかも潔く責任をとるしかないんだ。
本当に優しいというのは、そういう強さだと思うね。
1943年になると『姿三四郎』で監督デビューし、
新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞しています。
数多くの作品を生み出してきた黒澤ですが、
その中でも特に高い評価を得ているのが「羅生門」と「七人の侍」です。
「羅生門」は、海外で特に高い評価を得て、
ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞 名誉賞を受賞しました。
この出来事がきっかけで、黒澤は「世界のクロサワ」と呼ばれるようになりました。
1年以上の期間と多大な費用をかけて作られた「七人の侍」もまた、
ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞し、
歴史に残る名映画として今も世界中で知られています。
海外の有名監督の中にも、黒澤映画に影響を受けた人物はたくさんおり、
スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスなども、黒澤に大きく影響を受けたと言われています。
黒澤といえば映画へのこだわりが強く、
一切の妥協をゆるさないことでも有名です。
通常はレンタルで済ます撮影用の馬を、
わざわざ数十頭単位で買い上げてしまい、一から調教をしたり。
時代物の映画を撮る時に、写り込む住宅を邪魔と思い
「あの家消して」と言ってしまうなど、
並並ならぬこだわりを見せていたと言います。
多くの名作をこの世に残した黒澤は、
1998年9月6日に脳卒中により88歳で生涯を終えます。
日本を代表する監督として知られる黒澤は、
死後に映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞しました。
創造というのは記憶ですね。
自分の経験やいろいろなものを読んで記憶に残っていたものが足がかりになって、何かが創れるんで、
無から創造できるはずがない。
1910年3月23日 現在の東京都品川区東大井に生まれる
1916年 森村学園附属幼稚園。この頃からよく映画を観に出かけていた
1917年 同学園尋常小学校に入学
1918年 現在の文京区水道一丁目に引っ越し、黒田尋常小学校に転入
1927年 中学を卒業後、川端画学校に通い洋画を勉強する
1936年4月 P.C.L.映画製作所に入社。助監督として映画業界へと入る
1941年 シナリオを書いた『達磨寺のドイツ人』が高い評価を得る
1942年 シナリオを書いた『雪』が情報局国民映画脚本募集で情報局賞を受賞
『静かなり』は日本映画雑誌協会の国策映画脚本募集で1位に入賞
1943年 『姿三四郎』で監督デビュー。新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞
1945年 矢口陽子と結婚。明治神宮にて式を挙げる
1946年 16もの黒澤の作品に起用された、俳優の三船敏郎と出会う
1947年 『素晴らしき日曜日』で毎日映画コンクール監督賞を受賞
1948年 共同で映画芸術協会を設立
1950年 『羅生門』を撮影
1951年 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞 名誉賞を受賞
1952年 『生きる』でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞
1954年 『七人の侍』を発表し、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞
1957年 第1回ロンドン国際映画祭に招かれる
1958年 『隠し砦の三悪人』でベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞
1959年 黒澤プロダクションを設立
1960年 『悪い奴ほどよく眠る』が公開
1961年 『用心棒』が公開
1962年 『椿三十郎』が公開。その年の邦画興行収入一位を記録
1963年 『天国と地獄』を発表
1965年 『赤ひげ』を発表
1971年12月22日 自殺未遂を起こす。
日本映画産業の衰退の時期と重なっていたこともあり、映画を撮る間隔が5年おきになる
1975年 ソビエト連邦から招かれ、初のカラー作品『どですかでん』を撮影。
モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞
1976年 日本政府から文化功労者として顕彰される
1980年 『影武者』を発表。
さまざまなトラブルに見舞われながら、国内での歴代興行収入で一位を記録。
カンヌ国際映画祭パルム・ドール、英国アカデミー賞監督賞、セザール賞外国語映画賞を受賞。
第53回アカデミー賞ではアカデミー外国語映画賞とアカデミー美術賞の2部門にノミネートされる
1985年 『乱』を発表。
この作品で、後にアカデミー賞監督賞など、4部門にノミネートし、さらにワダ・エミが衣装デザイン賞を受賞
1985年 映画業界の人物としては初の文化勲章を受賞
1990年 日本人で初めてのアカデミー名誉賞を受賞
1998年9月6日 脳卒中により死去。享年88歳
1998年 死後、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞
1999年 『タイム』アジア版の「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選出