マハトマ・ガンディー
他人に変わって欲しければ、自ら率先して変化の原動力となるべきだ。
1869年10月2日、イギリス領インド帝国でガンディーは生まれました。
13歳の若さで生涯の伴侶となるカストゥルバと結婚。
その後、18歳のときにイギリスのロンドンに渡り、法廷弁護士となるために勉強を始めます。
大学卒業後、ガンディーはイギリス領南アフリカ連邦で弁護士として開業します。
しかし、当時は白人優位の思想が強く、ガンディーも人種差別を経験。
諸説はありますが、この差別がきっかけで、ガンディーは「インド人」意識に目覚めたと言われています。
『新約聖書』からイエスの思想などの知識を深め、
「本当に必要とする最小限のものしか持たない」という「非所有」の生涯を決意。
のちの「非暴力」思想をつくり上げていきました。
第一次世界大戦を経て「イギリスへの協力は独立へとつながらない」という信念を持つようになったガンディーは
「不服運動」や「不買運動」を通し世界的に知られる人物となりました。
一連の運動により懲役判決を受けるなど、数々の試練を課されたガンディーでしたが、
第二次世界大戦終結後に、状況が大きく変化します。
イギリスは戦争により国力が衰退し、インドを植民地として支配し続ける事がむずかしくなったのです。
ガンディーの号令がきっかけで再び起きた「独立運動」に耐えきれなくなり、
イギリスはとうとうインドの独立を受け入れました。
明日死ぬかのように生きよ。
永遠に生きるかのように学べ。
イギリスから独立したインドでしたが、困難は続きます。
ガンディーが目指した「ヒンドゥーとイスラームが融合したインド」はうまくいかず、
イスラームを信仰するパキスタンと分離することとなってしまったのです。
ヒンドゥーとイスラーム(ムスリル)の間で宗教紛争が勃発。
それでもガンディーは、戦争の相手であるパキスタンに歩み寄る姿勢をつらぬき通しました。
しかし、その姿勢が一部の人間には「裏切り者」と見られてしまい、
暴走したメンバーにより、1948年1月30日、ガンディーは滞在場所であったビルラー邸で暗殺されてしまいます。
ガンディーの死は国中に大きな衝撃を与えました。
葬儀は国葬としてとり行なわれ、多くの群衆がその様子を見守りました。
彼の暗殺の舞台となったビルラー邸は、現在ガンディー・スムリティ博物館となっています。
「インド独立の父」と呼ばれ、偉大な功績を残したガンディーの活動は多くの人々に影響を与え、
彼の誕生日である10月2日は国際非暴力デーとして定められます。
束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、私は走れるのだ。
涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。
1869年10月2日 現在のグジャラート州の港町ポールバンダルで生まれる
1888年 神智学協会の会員や神智学の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーらと出会う
この出会いがきっかけで、インド哲学・ヒンドゥー教の精神と文化に興味を持つ
1893年 イギリス領南アフリカ連邦で弁護士として開業
1913年 トランスバールの行進を企画して投獄される。その後、不正を追求し、撤回させる
1914年 第一次世界大戦が勃発
1915年 ガンディー、インドに帰国
1919年4月13日 インド軍部隊が数百人を無差別に虐殺した「アムリットサル事件」が発生
1922年3月18日 不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受ける
その後、インド民衆が警察署を襲撃し、警官約20名を殺害した事件により、第一次不服運動は中止
1930年 「塩の行進」を筆頭とした、不服運動が再開される
1942年 第二次世界大戦中、インドの懐柔を図ったイギリスからの提案を拒否し、2年間投獄される
1945年8月 第二次世界大戦終結
1947年8月15日 インドの独立を宣言
1947年10月 カシミール地方の帰属をめぐり、第一次印パ戦争が勃発
1948年1月30日 ガンディー、ビルラー邸にてナートゥーラーム・ゴードセーによって暗殺される。享年78歳
1948年1月31日 国葬にてガンディーの葬儀がとりおこなわれる。
2007年6月 国連総会により、ガンディーの誕生日である10月2日が国際非暴力デーと制定される