一人一人が持っている才能を正しく理解し、
最高のパフォーマンスを発揮する社会を作る

一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

鈴木 一朗(イチロー)
日本人初のメジャーリーガー外野手。ゴールドグラブ賞など、数々のタイトルをアジア人で初めて受賞した。
出生国:日本
誕生日:1973年10月22日

鈴木 一朗(イチロー)

壁というのは、できる人にしかやってこない。
超えられる可能性がある人にしかやってこない。
だから、壁がある時はチャンスだと思っている。

日本初のメジャーリーガとして多数の記録をもつイチローこと鈴木一郎。

そんな彼は、野球の活躍のみならず、
心に響く数々の名言を語ったことでも知られる人物なのです。

天才に見える彼も努力を積み重ね、
プロ野球選手としての地位を築きました。

今回は努力の天才とも言われるイチローがどのような人物なのか、
その名言から、努力の天才でもあるイチローの生き方をみていきましょう。

 

【世界で活躍した『努力の天才』イチローとはどんな人物?】

野球ファンでなくても、
日本人なら知らない人はいないと言っても過言ではない
プロ野球界の天才イチローこと鈴木一朗さん。

 

イチローは1973年10月22日に愛知県で誕生しました。

小学生の時から野球を始めプロ野球選手を目指し、
野球名門校である愛知工業大学名電高等学校に進学します。

走攻守ともにあまりの好成績で、
当時の監督からは「宇宙人」とも呼ばれていたそうです。

そんなイチローは高校卒業と共にオリックスに入団し
プロ野球選手になる夢を叶えます。

その後日本初の外野手メジャーリーガーとなり
・プロ野球の通算安打世界記録保持者
・最多試合出場記録保持者
など数々のタイトルを獲得し、プロ野球界の記録を
45歳で引退するまで更新し続けました。

45歳までメジャーでプレーをするというのは
ただ才能に恵まれた天才ができることではありません。

イチローは、人並ならぬ努力を重ねていたのです。

野球を始めた小学生の頃からプロになってもその姿勢は変わらず、
何度もの不調を努力で乗り越えています。

イチローは自身で「努力をした結果できるようになるなら自分は天才だ」
という名言を残すほど努力の人なのです。

イチローは2019年に引退をし、
長年の努力により培ってきたすばらしい経験を後世に受け継ぐため、
今もなお野球界に貢献し続けているのです。

努力せずに何かできるようになる人のことを
「天才」というのなら、僕はそうじゃない。
努力した結果、何かができるようになる人のことを
「天才」というのなら、僕はそうだと思う。

【歴史に残る『世界のイチロー』の名言たち】

理想のプロ野球選手「イチロー」として、絶え間なく努力を続けてきたイチローの名言をご紹介します。

「夢や目標を達成するには、1つしか方法がない。小さなことを積み重ねること」

「成績は出ているから今の自分でいいんだ
という評価を自分でしてしまっていたら今の自分はない」

イチローが「世界のイチロー」にまで成長したのは、
彼が持つ「努力の才能」のおかげといっても、過言ではないでしょう。

イチローは常に努力を重ね、挑戦することをやめませんでした。
だからこそ、野球史に残る記録を出し続けられたのです。

「グラウンドの中は、劇場でいえば、舞台の上と同じでしょ。
そこで演じている人は、すべてかっこよくなければいけない」

「今までの10年は、イチローが鈴木一朗よりもだいぶ先を走っていましたから、
そこに追いつけなかった。
でも、ようやく追いついた。もはや彼は僕の一部です」

常に努力し期待され、「世界のイチロー」であろうとした彼が
語ったこの名言たち。とても心に響きますよね。

ここまで言い切れるだけの、並々ならぬ努力を重ねていることがわかります。

私たちもイチローの名言から学べることは、沢山あるのではないでしょうか?

 

【まとめ】
・イチローは日本人初の外野手メジャーリーガー
・走攻守すべてに秀でたオールマイティープレーヤー
・プロ野球における通算安打世界記録保持者であり多数の賞を受賞
・引退後はマリナーズ会長付特別補佐兼インストラクターを務める
・オフシーズンには学生野球資格を使い、高校生や大学生への指導にあたる

球界を代表するスーパースター、イチローは
常に努力することを惜しまない努力の天才だったのです。

成績は出ているから今の自分でいいんだ、
という評価を自分でしてしまっていたら、今の自分はない。

1973年10月22日 愛知県名古屋市守山区で誕生
1985年 所属していた地元の少年野球チーム、
    「豊山町スポーツ少年団」で全国大会に出場
1986年 豊山町立豊山中学校に入学、野球部に所属
1988年 全日本少年軟式野球大会に出場、3位入賞する
1989年 プロ野球選手を目指して愛知工業大学名電高等学校に入学
1990年 2年生の時、夏の甲子園に3番・左翼手として出場する
1991年 3年生の春の甲子園に投手として出場、初戦敗退
    夏の大会は愛知大会決勝で東邦高校に敗れる
    怪我の為、野手へ転向する
11月22日 ドラフト会議、4位で単独指名を受けたオリックスと契約
1992年7月11日 対福岡ダイエーホークス戦で1軍初出場する
       ジュニアオールスターでMVPと賞金100万円を獲得
1993年6月12日 対近鉄バファローズ戦でプロ初本塁打を打つ
        打率不信で2軍落ち。「振り子打法」を作り上げる
        オフに所属したハワイ・ウィンターリーグの「ヒロ・スターズ」で優勝。ウィンター・リーグ初のMVPに選ばれる
1994年4月7日 登録名を本名「鈴木一朗」から「イチロー」に変更。日本人として初の名前のみの登録
   9月 122試合目で日本プロ野球史上初となるシーズン200本安打を達成
    パシフィック・リーグ新記録の打率.385を記録し首位打者となる
    最高出塁率・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・正力松太郎賞を獲得する
    日本プロ野球史上最年少でシーズンMVPも獲得する
1995年 首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し「打者五冠王」となる
    チームが悲願のリーグ優勝を果たす
"1997年6月 209打席連続無三振の日本プロ野球記録を樹立する

"
1998年 日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成する
1999年 日本プロ野球史上最速、757試合目で通算1000本安打を達成する
2000年11月19日 日本人初のポスティングシステムにより独占交渉をした
        シアトル・マリナーズと3年契約で合意する
         日本人野手初のメジャーリーガーが誕生する
2001年4月2日 オークランド・アスレチックスとの開幕戦に、1番・右翼手で先発出場
        メジャー初安打をうつ
 コミッショナー特別表彰を受賞
 シーズン242安打を記録し、メジャーリーグの新人最多安打記録を更新。アジア人打者初の新人王を受賞
 アジア人初の首位打者・盗塁王・シーズンMVP・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を獲得する
2003年 オフには4年4400万ドルで契約延長する
2004年 NPB/MLB通算2000安打を達成する
   10月1日 ジョージ・シスラーのメジャー歴代シーズン最多安打記録の257安打を更新
   アメリカ野球殿堂に特別ブースが用意される。日本からは正力松太郎賞特別賞が授与される
2005年6月14日 メジャー通算1000安打を達成する
2006年 初開催のWBCに日本代表として参加。優勝に貢献し野手部門のベストナインに選ばれる
2010年 10年連続200本安打を達成する
2012年7月23日 トレードによりニューヨーク・ヤンキースに移籍
2015年1月27日 マイアミ・マーリンズと年俸200万ドル+出来高の1年契約を結ぶ
2016年6月2日 パイレーツ戦でNPB/MLB通算700盗塁を達成する
   6月15日 NPB/MLB通算4257安打を打ち、NPB/MLBの通算安打でMLB最多安打記録を更新する
   6月24日 プロ野球での通算最多安打数の世界記録としてギネス記録に認定される
   8月7日 史上30人目のMLB通算3000安打を達成する
       三塁打数の日本記録をNPB/MLB通算で更新。単独1位の116本目を打つ
   10月5日 来シーズンもチーム残留することを決める
2017年9月7日 NPB/MLB通算5863塁打を達成。
       日米通算で王貞治が持っていた日本記録を塗り替える
2018年 初めて所属球団が決まっていない状態でキャンプインを迎える
3月7日に正式にマリナーズと年俸75万ドル+出来高で1年契約を結ぶ
5月3日 マリナーズと「スペシャルアシスタントアドバイザー」の契約を結ぶ 
    選手としては今季の残り試合は出場しないと発表する
2019年1月24日 マリナーズとマイナー契約を結ぶ
   3月20日 メジャー契約に切り替わる
2019年3月21日 開幕シリーズの東京ドームで行われたアスレチックス戦2試合に出場後、引退を発表
   4月30日 マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクターへの就任を発表
   9月14日 マリナーズから特別功労賞の「フランチャイズ・アチーブメント賞」を受賞
2020年2月7日 学生野球資格を回復する。オフシーズンに高校生や大学生への指導が可能になる

アクシスプロファイル簡易診断で、
あなたのスピリットプロファイルを明らかにしてみましょう。
無料で受講