野村克也
うまくいっているときは、周りに人がたくさん集まる。
だが、一番大切なのは、どん底のとき、誰がそばにいてくれたかや。
元プロ野球選手であった野村克也は、史上ふたり目の三冠王を達成した名選手であったとともに、
チームを優勝へと導いた名監督としても知られています。
そんな野村は、1935年に京都府の京丹後市で生まれました。
父は野村が3歳の頃に戦死。
病弱な母が家計を支えていたため、家庭はとても貧しく、
野村は小学校1年生の時からアルバイトをして生活を支えていました。
そんな極貧生活から脱出したいと言う気持ちから、華やかな職業に憧れる気持ちが強く、
歌手や俳優を目指していた時期もあったと言います。
そんな中で、当時のスター選手達の影響もあり、野村は野球選手を目指すようになります。
中学2年で始めた野球では、すぐにその才能を表わし、4番・捕手に抜擢。
しかし、その後野村が進学した高校はいわゆる弱小校であり、
甲子園には一度も進めなかったため、学生時代の野村は選手としては無名なままでした。
好かれなくても良いから、信頼はされなければならない。
嫌われることを恐れている人に、真のリーダーシップは取れない。
新聞に掲載されていた募集がきっかけでプロの道に進んだ野村は、下積み時代やスランプを経て、
1957年には数々のライバルおさえ、本塁打王のタイトルを獲得するほどの選手に成長します。
当時所属していたチームである南海を何度も優勝に導き、南海の黄金期を築きました。
そして、1965年には史上ふたり目の三冠王に輝きます。
選手として圧倒的な成績を残していた野村でしたが、その同期には王貞治や長嶋茂雄と言った名選手がいました。
そんな強豪達がいるなか、野村は捕手として「データ」と「駆け引き」を使ったプレーを展開していきます。
この時に集めた莫大なデータと、駆け引きの経験などは、
のちの監督時代に大いに役に立つこととなります。
南海からロッテ、西武と移籍して行った野村は、1980年11月16日をもって現役を引退。
その後、解説者の道を進み、12年の時を経てヤクルトスワローズの専任監督として現場へと復帰を果たします。
野村は監督としても非常に優秀な人物であり、1992年と1995年にはセ・リーグ優勝。
また、同じく1995年にはイチローを抑えて、日本シリーズで日本一へとチームを導きました。
その後は、阪神の監督、楽天の監督を経て2009年に監督を引退します。
野球解説者として活動していた野村克哉は、
2020年2月11日に虚血性心不全により84年の生涯を終えました。
「どうするか」を考えない人に、「どうなるか」は見えない。
1935年6月29日 京都府京丹後市で生まれる
1954年 南海に契約金0円のテスト生として入団
1956年 南海の正捕手に定着
1957年 本塁打王のタイトルを獲得。その後、8年連続で本塁打王を獲得
1959年 南海、リーグ優勝と日本一に輝く
1961年、1964年、1965年、1966年もリーグ優勝を果たす
1962年 パ・リーグ記録のシーズン44本塁打を記録
1963年 プロ野球記録シーズン52本塁打を記録
1965年 戦後初の三冠王に輝く
1968年 南海の選手とコーチを兼任する
1969年11月1日 34歳の時に選手兼監督に就任
1970年 42本塁打を記録
10月18日 史上4人目となる通算2000本安打を達成
1975年5月22日 史上2人目の600号本塁打を達成
野村の代名詞が「月見草」となるきっかけを作ったインタビューが行われる
1977年 南海の江夏豊が野村の説得に応じリリーフに転向。
同年、江夏は19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝く
1977年9月28日 南海を退団
1977年11月17日 ロッテに選手として移籍
1978年12月1日 西武へ移籍
1980年11月15日 引退を表明
1981年 TBSテレビ・TBSラジオなどで、数年に渡り野球解説者を務める
1989年1月 野球殿堂入りをする
10月 ヤクルトスワローズの監督に就任
1990年 「ID野球」を掲げ、チームの改革を図る
1991年 Aクラスの3位になる
1992年 ヤクルトがセ・リーグ優勝
1993年 セ・リーグおよび日本シリーズで優勝
1995年 セ・リーグ・日本シリーズ優勝
1997年 2位と大差をつけセ・リーグ優勝。
日本シリーズでも3度目の優勝を果たす
1998年10月25日 阪神の監督に就任
1999年 新庄剛志を投手として起用
2000年 阪神が首位に浮上するが、その後の6連敗が響き最下位となる
2002年11月6日 シダックスで野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任
2003年 第74回都市対抗野球大会で準優勝となる
2005年10月 楽天の監督に就任
2006年 リーグ最下位となる
2007年 チームを大幅に改革し、創設3年目で初めて最下位から脱出する
2008年6月29日 ソフトバンク戦にて15点を奪い大勝する
7月15日 監督として通算3,000試合出場を達成
2009年10月3日 チーム初のクライマックスシリーズの出場が決まる
10月9日 楽天球団の創設後、初のAクラス入りを果たす
その後、契約の更新は行われず監督を退任
2010年 サンケイスポーツの野球評論家に復帰
また、フリーの解説者として活動
2012年12月29日 契約満了により、楽天の名誉監督を退任
2013年4月 日本体育大学児童スポーツ教育学部客員教授に就任
2017年12月8日 妻の沙知代が急死
2020年2月11日 東京都世田谷区の自宅にて、虚血性心不全により死去。去年84歳