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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

野口英世
黄熱病や梅毒の研究で知られる、医師であり細菌学者。肖像は日本の千円札にも採用された。
出生国:日本
誕生日:1876年11月09日
命日:1928年05月21日

野口英世

私は少しも恐れるところがない。
私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきたのだ。

1000円札でお馴染みの野口英世。
彼は、人類の歴史を大きく変える
功績を作った医者として知られています。

医療に対して
熱い情熱を持つ野口英世の送った人生を
その功績とともに振り返っていきましょう。

【歴史に残る功績を残した、野口英世とは?】

野口英世といえば、
何をイメージするでしょうか?

「1000円札の肖像画の人」
「黄熱病に関する研究をしていた人」

など、いろいろ思いつくかと思います。

実際、野口英世はどのような人物だったのでしょうか?

医学者としての彼と
私生活での彼。
その両面から見ていきましょう。

<医学者としての野口英世>

野口英世が医学の道を志したきっかけは
幼い頃に経験したある出来事でした。

事故により左手を大火傷し、
障害を負ってしまった野口。

しかし、医学の力により
彼の左手は回復し、再び使えるようになったのです。

そこから医者を目指すようになり、
野口はアメリカへ渡りm基礎医学研究の道を歩みます。

熱心な研究者でもあった彼は、
実験を繰り返し、生涯で204編という膨大な量の論文を発表します。

そこから、野口英世を語る上で欠かせない
『梅毒』や『黄熱病』など、
細菌学の研究の研究で大きな功績を残しました。

次の章では
そんな野口の功績について
さらに詳しくみていきましょう。

絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、
自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。

【千円札で知られる野口英世の功績】

今や「千円札の人」として
多くの人に知られる野口英世。

アメリカ医学会で
「日本人は睡眠を取らない」と言われたほど、
研究熱心だった野口英世の功績をご紹介しましょう。

<梅毒研究>
コペンハーゲンの血清研究所から
ロックフェラー医学研究所に
移籍した野口英世。

この時にしていた「梅毒研究」がきっかけで、
世界中の医学会に名を知られる存在となります。

梅毒はとても昔から
人々死に至らしめてきた病でした。

梅毒は、現代では
きちんと対処すれば命に関わるリスクも低い病気ですが、
当時はろくな記録もない
恐ろしい病として知られていたのです。

そんな梅毒に関して、
野口は世界で初めて
梅毒の純粋培養に成功。

さらに梅毒菌を脳で発見し、
ある特定の症状が
梅毒患者の末期症状であることを証明しました。

この研究は治療法の確立に
大きく貢献することとなったのです。

<黄熱病の病原菌を発見>

梅毒研究での功績が認められ、
アメリカのロックフェラー医学研究所で
正員として働くこととなった野口英世。

41歳の時に、
彼はワクチンがまだなかった
黄熱病の病原体の研究に取り組みます。

研究のためにエクアドルを訪れた野口は
そこで黄熱病の病原体を特定。

それからワクチン開発に取り組みますが、
当時、黄熱病と区別の難しいワイル病も流行していたため、
研究は困難を極めたそうです。

熱心に研究を続けた野口ですが、
自身も黄熱病を患い
1928年5月21日に亡くなってしまいます。

野口英世が自身の命をかけた黄熱病の研究は、
のちにワクチンが完成することに大きく貢献したのです。

 

【まとめ】
・野口英世は医師であり細菌学者
・梅毒の研究で世界的な医学者となる
・1000円札に肖像画が使われている
・ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がる
・黄熱病の研究中に自身も罹患し、51歳で死去する

人類の医学発展のためにリスクを恐れず、
常に探求の道を歩み続けた野口英世は
間違いなく偉大な医者と言えるでしょう。

家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。
人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。
周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである。

1876年11月9日 福島県耶麻郡三ッ和村字三城潟で誕生。清作と名付けられる
1878年 左手に大火傷を負い、障害が残る
1883年 三ッ和小学校に入学
    左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に言われる
1889年4月 校長の小林栄に優秀な成績を認められ、猪苗代高等小学校に入学
1892年10月 左手の障害を嘆く作文を書いたことで、
      それを読んだ教師や同級生らが同情し、左手を治すための手術費用を集める募金が行われる
      会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡部鼎の下で左手の手術を受け左手が少し使えるようになる
      この手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指す
1893年3月 猪苗代高等小学校を卒業
      手術をしてくれた渡部の会陽医院に書生として住み込みで働き、約3年半医学の基礎を学ぶ
      細菌学を知る
1896年9月 人から40円もの大金を借りて上京する
      医師免許を取得するため医術開業試験の前期試験を受ける。合格する
      後期試験は独学では合格不可能であったため済生学舎に通う
1897年 臨床試験で必須の打診ができないことから、帝国大学外科学助教授・近藤次繁による左手の無償再手術を受け成功する
   10月 後期試験に合格する。21歳で医師免許を取得する
   基礎医学研究者の道を歩む
   高山高等歯科医学院の講師を務める。順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わる
1898年8月 「英世」と言う名に改名する
   10月 世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所に勤め始める
       語学の能力を買われ、外国図書係として、外国論文の抄録、外人相手の通訳、および研究所外の人間との交渉を担当する
1899年5月  伝染病研究所の蔵書を貸し出し、その蔵書が後に売却されるという事件が発覚する
       横浜港検疫所検疫官補に左遷される
   6月   横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見し診断する
   10月  検疫官補の仕事ぶりが認められる。
      清国のペスト対策を内務省が北里伝染病研究所に要請。国際防疫班に選ばれる
   半年の任期終了後も国際衛生局、ロシア衛生隊の要請を受けて残留する
1900年7月 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化し帰国する
      福島県に帰郷。再び神田・東京歯科医学院の講師となる
   12月5日 斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付ける
        その婚約持参金を渡航費に当てアメリカへ行く
   北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシルベニア大学医学部での助手として働く
1903年10月 デンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学
1904年10月  アメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍する
1905年 斉藤ます子との婚約を破棄
1911年4月10日  同じ年のアメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚
   8月 「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界に名が知れ渡る
      京都帝国大学病理学教室に論文を提出。医学博士の学位を授与される
1913年 進行性麻痺・脊髄癆の病気と梅毒との関連を明らかにする
    生理疾患と精神疾患の同質性を初めて示したものとなる
1914年4月   東京大学より理学博士の学位を授与される
   7月 ロックフェラー医学研究所正員に昇進する
   ノーベル医学賞候補となる
1915年 年老いた母との再会する為、15年ぶりに帰国する
    帝国学士院より恩賜賞を授けられる
   11月4日 日本を立つ
1918年6月 ロックフェラー財団の意向を受けて、黄熱病の病原体発見のためエクアドルへ派遣される
    派遣されて9日後に病原体を特定することに成功。レプトスピラ・イクテロイデスと名付ける
    この細菌をもとに野口ワクチンを開発した
    エクアドル軍の名誉大佐に任命される
   11月10日 母がスペイン風邪により死去
1919年  黄熱病の研究と撲滅のための医師団としてメキシコへ派遣される
1920年4月  ペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与される
1923年7月  父が72歳で死去
   11月 日本の帝国学士院会員となる
    ジャマイカのキングストン「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行う
1927年 トラコーマ病原体を発表する
   10月23日 アフリカへ黄熱病研究のため出張する
1928年1月2日 自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し、入院
    1月7日 回復し退院。研究を再開する
    5月13日  黄熱病にかかる。病院に入院する
    5月21日  53歳で黄熱病の為、死去する

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