一人一人が持っている才能を正しく理解し、
最高のパフォーマンスを発揮する社会を作る

一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

王貞治
元プロ野球選手・監督。史上3人目の三冠王達成者であり、2010年には文化功労者として顕彰された。
出生国:日本
誕生日:1940年05月20日

王貞治

自分のためにやるからこそ、それがチームのためになるんであって、
「チームのために」なんて言うやつは言い訳するからね。

世界のホームラン王、王貞治。

世界記録となるレギュラーシーズン通算本塁打868本を記録するなど
球界史に残る成績を残した努力の人です。

そんな王貞治の人物像に迫っていきます。

また世界の王と言われた王貞治の
輝かしい成績を改めてみていきましょう。

 

【野球史に残る成績を残した王貞治】

現在は福岡ソフトバンクホークス取締役会長、
日本プロ野球名球会顧問を務める
プロ野球界のスーパーレジェンド王貞治。

現役時代にはホームラン世界記録。

ON砲と呼ばれ長嶋茂雄と共に巨人で大活躍し、
監督としての才能を持った王貞治はどんな人なのでしょう。

「努力の天才」
王貞治は甲子園優勝投手の有名人として巨人に入団します。

しかし投手として首脳陣や先輩から評価は得られず、
太鼓判を押された打撃を極めるべく打者に転向しました。

それから打者として開花したのはプロ5年目のことです。

打つときのバットの出遅れを修正するために試行錯誤した努力の結果、
一本足打法をものにします。

そこからはすばらしい成績を積み重ねていった王貞治ですが、
1971年シーズン後半から打席に立つのが怖くなるほどのスランプに陥ります。

それでも頑なに一本足打法を貫き、1973年スランプを脱出。

その年は史上3人目、自身初の三冠王を獲得する成績を残したのです。

またソフトバンクホークスの監督時代には、
就任当初、低迷していたチームにあの有名な「生卵事件」が起こります。

この事件は試合後、チームを罵声したファンからナインの乗ったバスに
次々と生卵がぶつけられた事件です。

現役時代、スター選手として活躍した王貞治にとって
自チームのファンからのこの行為はかなり屈辱的と言えます。

しかしそれでも
「俺は辞めない」
「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と言い、
チームを育成します。

その結果、1998年21年ぶりのAクラス入りの成績をあげました。

翌年には球団創設11年目にして初のリーグ優勝、初の日本一と
彼の努力がついに報われました。

王貞治は逆境をばねに努力を続けられる「努力の天才」なのです。

努力は必ず報われる。
もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。

【あらためて見る、王貞治の成績の凄さとは?】

巨人の永久欠番「1」。

長年に渡る野球の功績が認められ
国民栄誉賞受賞者第1号となった王貞治。

そんな王貞治の成績を改めてご紹介します。

「巨人のV9時代を支えた4番バッター」
王貞治は1959年に
契約金1,800万円、年俸144万円、背番号「1」という
高卒新人としてはかなりのVIP待遇で巨人に入団します。

現役として通算2831試合に出場した王貞治の成績は、
9250打数/2786安打/868本塁打/2170打点/打率.301です。

獲得タイトルもかなり多く、
首位打者5回/最多安打3回/本塁打王15回/打点王13回となっています。

また2年連続の三冠王に
現在もプロ野球記録となっているセーリーグMVP9度受賞。

一本足打法のホームラン王というイメージは広く浸透していますが、
改めてみると打者として伝説的な成績を残していますね。

そして王貞治は打撃面だけでなく300盗塁を達成するなど
守備でもすばらしい成績を残しています。

こうした王貞治の成績は22年のプロ生活の中で
ひとつひとつ記録を積み重ねた
才能だけでない努力の証とも言えるのです。

「世界の王」
現役を終えた王貞治は監督としてもその人格と育成力で功績を残します。

監督としての通算記録は、2507試合で1315勝でプロ歴代8位です。

1983年から1988年までは巨人、
1994年から2008年までソフトバンクホークスの監督を務めていました。

両チームともにリーグ優勝を果たしますが、
特に就任当初Bクラスだったソフトバンクホークスを
常勝軍団に育て上げた名監督なのです。

また2006年に開催された第1回WBCでも
監督としてチームを優勝へと導き、世界の王と言われました。

「敵と戦う時間は短い。自分との戦いこそが明暗を分ける」

自身で語った言葉の通り努力を重ねた王貞治は、
日本が世界に誇るアスリートなのです。

 

【まとめ】
・元巨人軍のプロ野球選手、王貞治
・世界記録となる通算本塁打868本を打ち、世界のホームラン王となる
・史上3人目・セ・リーグ初の三冠王達成
・数々の日本プロ野球記録を保持
・引退後、巨人、ダイエー・ソフトバンクで監督を務める
・国民栄誉賞受賞者を授賞、文化功労者として顕彰された

努力を惜しまない野球人生を送った王貞治は、
偉大な記録を打ち立てた野球界の伝説です。

もし報われない努力があるのならば、それはまだ努力と呼べない。

1940年5月10日 東京府東京市本所区で誕生。仮死状態で生まれる
1951年 クラス仲間と野球チームを作る。投手で4番を打つ
1953年3月 墨田区立業平小学校を卒業
   4月 区立本所中学校に入学
     地元の町工場のおやじさんが作った高校生主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に入る
1954年11月末 隅田公園今戸グラウンドで後のコーチとなり師匠となる荒川博と出会う
       アドバイスを受け左打に変える
1956年 早稲田実業学校高等部商業科に入学
   5月 春季関東大会東京都予選決勝で先発する
     春季関東大会優勝
   夏の甲子園に出場する。2回戦では1年生ながら初めて先発として起用される
1957年 2度目の甲子園出場。準々決勝で敗退
1958年 3年生の時の春の選抜に出場。打者としても活躍
    夏の甲子園の東京都予選決勝で敗退
1959年 巨人に入団する
    契約金1,800万円、年俸144万円、背番号「1」という高卒新人としては破格の条件だった
   4月11日 開幕日に7番・一塁で先発出場を果たす
   4月26日 対国鉄戦で第1号本塁打となる決勝2ランホームランを打つ
1960年 オールスターゲームにファン投票で選出される
1962年 シーズン開幕戦に4番で出場
    一本足打法をものにし、初めて本塁打王と打点王を獲得
1963年 「ON砲」と呼ばれた長嶋茂雄と巨人の二枚看板として大活躍
     2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズの優勝を果たした
     2年連続で本塁打王を獲得
1964年5月5日 広島が「王シフト(白石シフト)」と呼ばれる守備体系を開始したことで話題となる
   7月19日 後楽園球場での対国鉄戦で史上初のバックスクリーン越えのホームランを打つ
   9月23日 24歳でシーズン55号(通算170号)本塁打を記録
       日本出身選手における最多本塁打記録となっている
   シーズン本塁打の新記録達成でリーグMVPに選ばれる
   2度目の打点王も獲得
1965年 4年連続の本塁打王、2年連続3度目の打点王を獲得
    2年連続のリーグMVPに選ばれる
    巨人は2年ぶりにリーグ優勝と日本シリーズ優勝を飾る
1968年 初の首位打者を獲得
1969年 2年連続の首位打者を獲得。MVPに選ばれる
1970年 3年連続の首位打者を獲得。MVPに選ばれる
1971年 シーズン後半、深刻なスランプに見舞われる
    10年連続の本塁打王、打点王を獲得
   9月15日 対阪神戦で忘れられない逆転3ランホームランを打つ
   12月27日 長嶋に代わり14代目のキャプテンに就任する
1972年 スランプから脱出し、自己最多となる120打点を記録
1973年 打率.355・51本塁打・114打点で史上3人目、自身初の三冠王を獲得
1974年 打率.332・49本塁打・107打点で史上初の2年連続三冠王に輝く
    8月4日には史上8人目となる通算2000本安打を達成する
    四球、敬遠、出塁数、長打率も日本プロ野球のシーズン最高記録を更新する
1976年 選手兼任コーチとなり、64試合で30号本という最速記録を達成
   7月23日 通算700号を達成する
   10月10日 通算2317試合目にしてベーブ・ルースの714号に並ぶ
   本塁打王に返り咲く。打点王も獲得。シーズンMVPにも選ばれる
1977年9月3日 メジャーリーグ記録を抜く756号を達成
   福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与される
   2年連続の本塁打王、打点王を獲得。シーズンMVPに選ばれる
4度の2年連続MVP、9度のMVP選出は現在もプロ野球記録となっている
1979年 初めて打撃三冠タイトルを1つも取れずに終わる
1980年11月4日 現役引退と助監督就任を発表する
   11月23日 ファン感謝デー・イベントにて引退セレモニーが行われる
1981年 巨人助監督を務める
    監督・藤田、ヘッドコーチ・牧野茂とのトロイカ体制で日本一へ導く
1983年 リーグ優勝に導く
   11月8日 第11代監督に就任する
1987年 独走でのリーグ優勝するも日本一は逃す
1988年9月29日 辞任する。事実上の解任
   選手時代の功績が讃えられ、背番号1は巨人の永久欠番になる
   退任後はNHK野球解説者を務める
1994年10月12日 福岡ダイエーホークスの監督に就任する
1995年 シーズンを5位で終わる
1996年5月9日 対近鉄バファローズ戦で「生卵事件」が勃発する
1998年 21年ぶりのAクラスとなる3位に入る
1999年 球団創設11年目にして初のリーグ優勝を果たす
日本シリーズを制して初の日本一となる
2000年 リーグ優勝をする
     日本シリーズで長嶋茂雄が監督を務める巨人との「ON監督対決」が注目を浴びる
2004年6月7日 対日本ハム戦で監督通算1000勝を達成
2005年1月28日 取締役副社長兼GM・監督に就任
   10月10日 「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック」日本代表チーム監督に就任
2006年3月21日 「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック」の決勝に勝利
        日本を世界1に導く
   7月5日 胃に腫瘍ができていることを発表。療養に入る
   8月2日 退胃全摘手術を行い退院する
   12月12日 毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞
   12月20日 日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞 
        また個人として日本プロスポーツ特別賞も同時受賞
2007年 春の宮崎キャンプから監督業に復帰する
    シーズンは3位で終わる。クライマックスシリーズは第1ステージで敗退
2008年5月6日 陳水扁総統から無任所大使に任命される
   7月26日 史上8人目となる監督通算1300勝を達成
   9月23日 試合終了後に記者会見を開き、体力的な問題を主な理由にシーズン終了で監督職を退くことを表明する
   10月7日 対楽天戦終了後。敵地にもかかわらず王の引退セレモニーが行われる
  監督としての通算記録は、2507試合で1315勝(プロ歴代8位)1118敗74分
2008年10月8日 ソフトバンク球団取締役最高顧問に就任
   12月7日 読売巨人軍OB会の会長に選出される
2009年1月1日 球団取締役会長に役職変更される
       2009 ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表監督相談役を務める
   9月21日 腸閉塞、胆嚢摘出手術を受ける
   12月13日 金田正一の後任として名球会の会長に選出される
2010年1月5日 ソフトバンク球団に新設された「編成委員会」の副委員長に就任
   7月3日 ヤフードーム内に記念館「王貞治ベースボールミュージアム」開館する
    10月26日 多年にわたる野球界への貢献などで平成22年度文化功労者に選出される
2015年1月 台湾の野球殿堂・台湾棒球名人堂に選出される
2018年6月1日 一般女性との入籍を発表する

アクシスプロファイル簡易診断で、
あなたのスピリットプロファイルを明らかにしてみましょう。
無料で受講