柳田國男
我々が空想で描いて見る世界よりも、 隠れた現実の方が遥かに物深い
文化勲章受章を受賞した民俗学者であり、官僚でもあった柳田國男。
「日本人とは何か」という問いの答えを求めた
彼の人生は、どのようなものだったのでしょうか?
「日本民俗学の開拓者」と呼ばれる柳田國男は、
どのようにして民俗学の極めたのでしょうか?
その軌跡をご紹介します。
【日本民俗学の開拓者、柳田國男とは?】
1875年、柳田國男は現在の兵庫県神崎郡福崎町辻川で生まれました。
少年時代の柳田は非凡な記憶力を持ち、
本をたくさん読む頭の良い子供だったと言われています。
彼の家族は医者家系であり、
両親、父方の祖母、7人の兄弟がいる大家族でした。
そんな中で、長男の妻と母の対立が起き、長男夫婦は離婚してしまいます。
この出来事が幼い柳田國男に強い影響を与え、
民俗への関心が芽生えたきっかけになったと言われています。
その後上京した柳田國男は
東京帝国大学法科大学政治科、現在の東京大学法学部政治学科に進学し、
卒業後は農商務省へ。
私生活の方では、1901年5月に大審院判事を務める柳田直平の養子となり、
姓が松岡から柳田に変わりました。
高等官僚として講演旅行などをするようになると
東北を中心に地方の人々の暮らしに触れる機会が増え、
民俗的なものへの関心を強めていきます。
そして官僚を辞めた柳田國男は
東京朝日新聞社の客員となって全国各地を旅しながら、
調査・研究し、数多くの論説を執筆しました。
「日本人とは何か」を追い求め、
今までになかった日本民俗学の研究方法を確立させた柳田國男は
1962年8月8日心臓衰弱のため88歳でこの世を去ります。
彼が開拓した日本民俗学という新しい学問は
よりよい未来を目指し今も研究され続けているのです。
本を読むということは、大抵の場合には冒険である。
だからまた冒険の魅力がある。
【なぜ、柳田國男は民俗学の権威となったのか?】
日本で「民俗学」という学問分野を開拓した柳田國男。
「民俗学」とは、国民の日常生活文化の歴史を、
民間伝承をおもな資料として再構成しようとする学問です。
柳田がなぜ、民俗学ので権威と言われるのか?その理由を見ていきましょう。
理由1:日本民俗学を確立させた
柳田國男は
「言葉」から社会の仕組みや儀礼・信仰などの歴史を明らかにすることを
民俗学の目的の一つとしてあげていました。
そのため、文献重視の歴史学とは異なり、
聞き書きやフィールドワークを主な研究手法とし
国民が実際に行っていることを調査・記録して資料する方法を作ったのです。
理由2:庶民の日常を書き残す
歴史学では歴史に残るような重要なことのみ文献に残されます。
民俗学は微細な事実の考証から出発するとした柳田國男は、
歴史書では残されない人々の日常に着目することで
社会で実際起こっていることを解明し、
何を変えるべきかを明らかにしようとしました。
理由3:著作を100冊以上残す
柳田國男は民俗学者として多くの著書を残しました。
その中には日本の「怪談ブーム」に着目し学問として扱った
「妖怪談義」があります。
彼の残した多大な数の著書は後の民俗学に役立っています。
これらの功績を作った柳田國男は民俗学の権威となり
文化勲章や1962年勲一等旭日大綬章を授与されたのです。
【まとめ】
・柳田國男は日本の民俗学者であり官僚
・民俗学の開拓者である
・1951年文化勲章受章した
・兵庫県神崎郡福崎町辻川の名誉町民第1号となる
庶民の人々の歴史に目を向けた民俗学を確立させた柳田國男は
民俗学の権威として後世に名を残しているのです。
自分の故郷を殺さないと、人は一人立ちできない。
1875年7月31日 兵庫県神崎郡福崎町辻川で誕生
1884年 一家で兵庫県加西郡北条町に転居
1886年 高等小学校卒業する。地元辻川の旧家三木家に預けられる
1887年 医者を開業していた長男に引き取られ、茨城県と千葉県の境で下総の利根川べりの布川に移住
1891年 東京に住んでいた三兄と同居
1892年 尋常中学共立学校に編入学する
1893年 長兄の転居に伴い千葉県南相馬郡布佐町に移住
1894年 第一高等中学校に編入学する
1897年 第一高等学校(第一高等中学校改称)卒業する
東京帝国大学法科大学入学する
田山花袋、国木田独歩らと『抒情詩』を出版
1900年7月 東京帝国大学法科大学政治科卒業する
農商務省に入る。主に東北地方の農村の実態を調査・研究
1901年5月 柳田家の養嗣子として入籍
1902年2月 法制局参事官に任官
1904年4月 柳田直平の四女・孝と結婚する
1907年2月 島崎藤村、田山花袋、小山内薫らとイプセン会を始める
1908年1月 兼任宮内書記官となる。自宅で「郷土研究会」を始める
1910年6月 兼任内閣書記官記録課長となる。
「郷土研究会」を発展させて幹事役となり「郷土会」を始める
1913年3月 高木敏雄と共に雑誌『郷土研究』を刊行
1914年4月 貴族院書記官長となる
1919年12月 貴族院書記官長を辞任する
新渡戸稲造が国際連盟事務次長として訪欧した為、、「郷土会」が活動休止
1920年8月 東京朝日新聞社客員となる。論説を執筆する。全国各地を調査旅行する
1921年 渡欧する。ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任
1923年 国際連盟委任統治委員を突如、辞任。帰国する
1924年4月 慶應義塾大学文学部講師となる。民間伝承を講義し始める
1926年7月 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任する
1934年 文通していた宮本と直接会いったことをきっかけに民俗学の道へ進む
1939年 民間学術団体の国民学術協会設立会員となる
1940年 朝日文化賞を受賞
1942年 日本文学報国会理事となる
1946年7月 枢密顧問官に就任する。日本国憲法審議に立ち会う
1947年3月 自宅書斎隣に民俗学研究所を設立する
帝国芸術院会員に選任される
1949年3月 日本学士院会員に選任される
4月 民間伝承の会の初代会長に就任する
1951年11月 文化勲章を受章する
1962年8月8日 心臓衰弱のため死去