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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

松下幸之助
パナソニックを一代で築き上げた経営者。『経営の神様』とも呼ばれる。
出生国:日本
誕生日:1894年11月15日
命日:1989年4月27日

松下幸之助

志を立てるのに、老いも若きもない。
そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである。

日本を代表する大企業「パナソニック」を一台で築き上げた松下幸之助。

今や「経営の神様」とも称される人物である松下ですが、
少年時代は貧さゆえに多くの苦労を体験してきました。

もともとは旧家の生まれであり、何不自由ない生活を送れるはずだった松下でしたが、
父が商売に失敗したことにより環境は一変。

小学校を中退し、奉公へと出されることとなってしまいました。

まだ幼いながらも毎日忙しく働かなかざるおえない環境。
しかし、その環境が松下の商才を目覚めさせました。

他の人が考え付かなかった工夫により小遣い稼ぎをしていた松下ですが、
その行動は一部の仲間に反感を買ってしまいます。

その経験により、松下は「1人だけ得をしても意味がない」という考えに気づきます。
この考えは、生涯を通して松下の理念に影響を及ぼすこととなるのです。

どんなに悔いても過去は変わらない。
どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。
いま、現在に最善を尽くすことである。

その後、松下は大阪に導入された路面電車に感動し、
電気関係の仕事につきたいと考える様に。

そこで目をつけたのが、電気ソケットでした。

当時の日本では、電球の取り外しに専門知識が必要とされており、
手軽に行えるものではありませんでした。

松下は簡単に取り外せる電球の開発を行い、販売を開始。
一時は売り上げが伸びず、経営難におちいったものの、なんとか回復。

その後は売り上げを順調に伸ばしていき、そして生まれたのが、
のちのパナソニックとなる「松下電気器具製作所」です。

しかし、松下の人生に再び困難がやってきます。
戦争での日本の敗北です。

GHQに目をつけられた松下は、戦争協力者として公職追放処分を受け、
社長の職を下ろされてしまいます。

それでもめげることなく、追放される原因となった、
松下電気器具製作所への「制限会社」指定に対して、異議を唱えます。

「松下電気器具製作所は、制限会社の対象である財閥ではない」
と粘り強く何度も直談判したことにより、1950年には「制限会社」が解除。

これにより、松下は社長職に復帰できたのです。

松下はどの様な状況でもあきらめず、粘り強く挑み続けること。
当たり前のことを、さらによくしようとする姿勢。

これらの意識があったからこそ、
松下は「経営の神様」と呼ばれるまでの存在になったとも言えるでしょう。

人と比較をして劣っているといっても、決して恥ずることではない。
けれども、去年の自分と今年の自分とを比較して、
もしも今年が劣っているとしたら、それこそ恥ずべきことである。

1894年11月15日 和歌山県和佐村で生まれる
1899年 父が米相場で失敗
1904年 9歳の時に火鉢店に奉公に出される
1905年 五代自転車店に奉公。生涯経営の師となる鳥井信治郎(サントリーの創業者)と出会う
1906年 タバコの買い置きにより、小遣い稼ぎをする
1908年 初めて自転車を販売する
1910年 大阪で路面電車を見て、電気関係の仕事に憧れる
大阪電灯(元関西電力)に入社
1917年 大阪電灯から独立。改良ソケットの販売を行う
1918年 松下電気器具製作所を創業
1929年 松下電器製作所へ改称
1935年 松下電器産業株式会社として法人化
1943年 軍の要請により松下航空機株式会社と松下造船株式会社を設立
1945年 太平洋戦争が終結
経営再建に取り組む
1946年 GHQから制限を受ける
生産の中止、経営の凍結、社長職からの追放などを受け、解体の聞きに面する
松下電器産業株式会社が財閥指定されたことに対し、抗議を行う
1947年 社長職に復帰する
1955年 日本の長者番付で一位になる
1961年 社長職を辞職。会長に就任
従業員の福祉基金に私財2億円を寄付
1970年 日本万国博覧会に松下電器館を出展
1971年 慶應義塾大学工学部への寄付を行い、松下記念図書館が作られる
1973年 80歳の時に現役を引退
1979年 財団法人松下政経塾を設立
1989年4月27日 気管支肺炎により松下記念病院で死去。享年94歳

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