岡 潔
数学は印象でやるもので記憶はかえって邪魔になる。
忘れるものはドンドン忘れて行く。
これが極意です。
1901年4月19日に大阪府大阪市で生まれた岡潔は、
数学の新たな可能性を開拓した人物として、
日本のみならず世界中で知られています。
その中でも特に有名なのが、
それまで世界中の誰も解くことができなかった「三つの大問題の解決」を、
たった一人で解いてしまったことです。
京都帝国大学で助教授として働いていた岡は、
1929年にフランスへと留学。
そこで、生涯の研究テーマとなる多変数複素関数論に出会いました。
当時は多変数複素関数論に関してはまだまだ未知な部分が多く、
「ハルトークスの逆問題」を代表とする「三つの大問題」を最後まで解明できた数学者は一人もいませんでした。
そんな中、岡は数十年もの歳月をかけ、
たった一人でそれらの大問題を解決してしまったのです。
一人の人間が三つの大問題を解いたことは、
当時の西欧の数学界では信じられないことでした。
あまりに異彩なその功績は、個人が成し遂げたものではなく、
「岡潔」というペンネームの集団によるものだと勘違いされたくらいでした。
人間が人間である中心にあるものは
科学性でもなければ論理性でもなく理性でもない
情緒である。
あらゆる困難を乗り越え、たった一人で数学界の可能性を切り拓いた岡は、
教育者としても優秀な人物として知られています。
京都帝国大学で教鞭をとっていた頃には、
ノーベル賞受賞者である湯川秀樹や、物理学者である朝永振一郎も岡の授業を受けたことがあり、
「物理の授業より刺激的だった」と語っていたと言われています。
岡自身は「純粋な日本人」としての考えを大切にし、
日本人は特に「情」を重んじる民族だと考えていました。
西洋人と違い、日本人は「知」が苦手分野であるから、
西洋的なインスピレーションではなく、日本的な「情緒」を大切にすることで「知」を身につける…
つまり、日本人は日本人なりのやり方で、学び、思考していくべきとの考えを展開していきました。
このようなことからも分かるように、
岡はとても愛国精神が強い人物としても知られ、日本の未来をいつも憂えていたと言われています。
岡は一人で物事を深く思考することになりこの上のない幸福を感じていたとされ、
彼が遺した思想書は、現代でもその意味を理解できる人間がほとんどいないとされており、
その才能の異質さを表しています。
孤高の研究者と言われた岡潔は、1978年3月1日に、76年の生涯に幕を閉じました。
数学界に偉大なる貢献をした岡は、1960年には文化勲章を。
1973年には勲一等瑞宝章を受賞しています。
人は極端になにかをやれば必ず好きになるという性質をもっています。
好きにならぬのがむしろ不思議です。
1907年4月 柱本尋常小学校に飛び級で入学
1913年3月 柱本尋常小学校を卒業
4月 紀美尋常高等小学校高等科へ進級
1914年4月 和歌山県立粉河中学校に入学
1919年3月 和歌山県立粉河中学校を卒業
9月 第三高等学校理科甲類に入学
1922年3月 第三高等学校を卒業
4月 京都帝国大学理学部に入学
1923年3月 物理学志望から数学志望に変更
1925年3月 京都帝国大学理学部を卒業
4月 京都帝国大学理学部の講師に就任
1927年4月 第三高等学校講師を兼任
1929年4月 京都帝国大学理学部助教授に就任
フランスに留学
ソルボンヌ大学ポアンカレ研究所に所属する
1932年3月 広島文理科大学の助教授に就任
5月 日本に帰国。
1935年1月 ベンケ、トゥルレン共著の冊子で取り上げられた問題の解決に取り組む
9月 数学上の最初の発見を元に論文ⅠからⅤまで発表
1936年5月 論文Ⅰを広島文理科大学紀要に発表
1938年1月 広島文理科大学を休職
数学上の第二の発見をもとにした論文Ⅵを発表
1940年6月 広島文理科大学辞職
10月 論文Ⅵを発表により、京都帝国大学から学位が授与される
1941年10月 北海道帝国大学理学部研究補助に就く
1942年11月 北海道帝国大学理学部研究補助を辞職
1948年10月 前々年の数学上の第三の発見をもとに論文Ⅶを発表
1949年7月 奈良女子大学理家政学部教授に就任
1951年10月 論文Ⅷを発表
日本学士院賞を受賞
1953年10月 論文Ⅸを発表
1954年4月 京都大学理学部非常勤講師を兼任
朝日文化賞を受賞
1960年 文化勲章を受賞
1961年 橋本市名誉市民に選出される
1962年9月 論文Ⅹを発表
1963年 毎日出版文化賞を受賞
1964年3月 奈良女子大学定年を退職。京都大学非常勤講師を定年退職する
4月 奈良女子大学名誉教授、奈良女子大学非常勤講師に就任
1968年 奈良市名誉市民に選出される
1969年4月 京都産業大学理学部教授に就任
教養科目である「日本民族」を担当する
1973年 勲一等瑞宝章を受賞
1978年3月1日 76歳で亡くなる。従三位を受ける