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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

夏目漱石
『我輩は猫である』などで知られる明治の文豪。その肖像は日本の千円札にも採用された。
出生国:日本
誕生日:1867年2月9日
命日:1916年12月9日

夏目漱石

あせってはいけません。
ただ、牛のように、図々しく進んで行くのが大事です。

2007年まで発行された旧1000円札でお馴染みの日本文学者、夏目漱石。

中でも代表作の「こころ」は日本史上に残る大ヒット作です。

こころの発行部数はなんと718万部。
現代に受け継がれる名作、名言を生み出した夏目漱石は
どのような人物であったのかをご紹介します。

【「こころ」の作者夏目漱石。その人物像について】

代表作「こころ」で知られる夏目漱石の人物像を語る上で
かかせないキーワードが「病弱」です。

夏目漱石は自身、家族共に病弱で彼の人生は病に翻弄されていました。

幼少期に家庭環境が悪かったことに加え、
母も兄弟も病気で早くに亡くしてしまいました。

この家庭環境が影響してなのか漱石は人間嫌いで癇癪持ちだったと言われています。

また兄弟を結核で亡くしたことら若い時から結核に恐怖に怯え続ける精神状態でもあり、
病的に神経質な人でした。
また夏目漱石自身も病弱で3才時に天然痘になったのを始めとして
虫垂炎、腹膜炎そして彼を苦しめた強度の神経衰弱、
人生のうち5回も再発を繰り返し死に至らしめた胃潰瘍と
数々の病と闘いながら歩む人生を送りました。

小説家としては37歳と遅咲きにも拘らず
「こころ」のような数々の名作を生み出した彼が
胃潰瘍で46年と短い生涯を終えてしまうのは
日本文学界においてもとても惜しいことです。

しかし反面、元々小説を書き始めたのは彼の知人に神経衰弱の改善にいいと
勧められたという病なしでは
夏目漱石の作品が誕生しなかったということも事実なのです。

また「彼岸過迄」「行人」「夢十夜」「明暗」「こころ」という晩年の名作たちは
ひどい胃潰瘍を患い死について考える中
そのことを反映させた作品になっているので、
すばらしい文学は彼が病と向き合ってきたからこそ生まれたとも言えます。

自分の弱点をさらけ出さずに人から利益を受けられない。
自分の弱点をさらけ出さずに人に利益を与えられない。

【夏目漱石の名言「月が綺麗ですね」とは?】

小説家として代表作に「吾輩は猫である」「こころ」などがある夏目漱石ですが、
数々の名言も残しています。

その中でも粋な言葉として残っている「月が綺麗ですね」という言葉は
一体どういう意味なのかご紹介します。

夏目漱石は小説家になる前まで留学経験もあり、
英語が堪能で英語講師をしていた時代に生まれた言葉です。

授業中、「I Love You」を訳しなさいという回答に対し、
君を愛していると直訳した生徒へ
日本人は愛しているなんて言わないから
「月が綺麗ですね」くらいに訳すのがいいと言ったそうです。

日本人のこころに寄り添った翻訳ですよね。

今でこそ好きや愛してるなどの言葉を使うようになったものの、
ダイレクトな愛情表現が苦手な日本人にとって
愛の言葉を使わず愛を伝えることができる奥ゆかしい言葉です。

ちなみに「月が綺麗ですね」と言われ返事がYESなら「死んでもいいわ」、
NOなら「私はまだ死にたくありません」と言うのが定番の返しだそうです。

このエピソードにはっきりとした証拠はないそうですが、
こころなどの恋愛を小説に書ける彼らしい名言です。

【まとめ】
・夏目漱石は日本の文学者
・2007年まで発行された1000円札の絵柄となった
・小説家としては37歳と遅咲きで、その前は教師をしていた
・代表作「こころ」は現代に至っても日本で一番売れた小説で販売部数718万部
・癇癪持ちでとても神経質な性格
・病弱で酷い神経症と胃潰瘍を患う
・「月が綺麗ですね」などの名言をいくつも残す
・1916年12月9日 胃潰瘍により死去

愛嬌というのはね、自分より強いものを倒す柔らかい武器だよ。

1867年1月5日 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)で生まれる
1868年11月 新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、姓が塩原となる
1874年 浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。現・台東区立蔵前小学校)に入学
1876年 市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)へ転校
1878年2月 回覧雑誌に『正成論』を掲載
   11月 華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業
1879年 京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学
1881年1月  実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校
1883年 9月  神田駿河台の成立学舎に入学
1884年9月  大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学
1888年1月 夏目性に戻ることになる
   7月 第一高等中学校予科を卒業
   9月 文学を専攻とし本科一部に入学
1889年 親交のあった子規の『七草集』の批評を書き、ここから“漱石”の筆名を用いるようになる
1890年7月 第一高等中学校本科を卒業
   9月 帝国大学(のちの東京帝国大学)に文科大学英文科入学する
1893年7月 帝国大学卒業、大学院に入学
   10月 高等師範学校(のちの東京高等師範学校)の英語教師として勤める
1894年2月  結核の徴候があり、療養に励む
1896年4月  熊本県の第五高等学校講師になる
   6月 中根鏡子と結婚
   7月  教授に就任
1989年10月 俳句結社「紫溟吟社」の主宰になる
1899年5月   長女・筆子誕生
1900年 パリに留学
1901年1月  次女・恒子誕生
1903年4月 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任
   10月 三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もたしなんだ
1904年 明治大学講師も兼任
1905年1月 『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を発表(翌年8月まで断続連載)
   12月 四女・愛子誕生
1906年4月 『ホトトギス』に『坊っちゃん』を発表
1907年1月 『ホトトギス』に『野分』を発表

   4月 教職をすべて辞め、朝日新聞社に入社。職業作家として新たな道を歩む

   6月 -長男・純一誕生。『朝日新聞』で『虞美人草』を連載(10月まで)
1908年12月 次男・伸六誕生
1910年3月  五女・雛子誕生
   6月 胃潰瘍の治療のため内幸町の長与胃腸病院に入院
   10月 長与病院に入院
1911年2月21日  文部省からの文学博士号授与を辞退
1913年1月  ひどいノイローゼを再発
   3月 胃潰瘍再発
1914年4月 『朝日新聞』に『こゝろ』を連載( 8月まで)
1916年5月 『朝日新聞』に『明暗』を連載( 12月まで)
   12月9日  午後7時前、胃潰瘍により死去。戒名・文献院古道漱石居士

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