千代の富士
頂上であって同時に崖っぷちなんだよ。
「ウルフ」と呼ばれた大横綱、千代の富士。
大型力士を豪快に投げ飛ばす相撲で人気を博した力士です。
今回は相撲界のレジェンド千代の富士が歩んだ人生を
ご紹介します。
また彼の相撲が伝説と言われる理由も改めてみていきましょう。
【相撲界のレジェント、千代の富士の人生】
昭和最後の大横綱であった千代の富士は
北海道松前郡福島町の漁師の家に生まれます。
家業を手伝っていたこともあり、
鍛えられた足腰と優れた運動神経を持った少年でした。
中学生の時、走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、
オリンピック選手にもなれるのではと言われた千代の富士。
そんな彼が大嫌いとしていた相撲の世界に入るきっかけは
中学一年生の時に盲腸炎の手術を受けたことでした。
千代の富士の恵まれた体格と
"途中で麻酔が切れた中でも手術を耐えた忍耐力をみた病院長が連絡し、
"
千代の山に直々にスカウトされたのです。
気があまり乗らずにいた千代の富士ですが、
「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機に乗っけてあげるよ」
という千代の山の飛行機という言葉に惹かれ相撲界へ足を踏み入れました。
中学3年生で初土俵を踏むと丸5年で新入幕を果たします。
その後横綱となり伝説的な記録を作った功績が称えられ、
1989年には相撲界初の国民栄誉賞を受賞しました。
昭和から平成にかけ一時代を築いた千代の富士は
1991年5月場所 3日目が終わった夜、現役引退を表明します。
引退後は九重部屋を継承し相撲協会の審判部副部長に就任。
相撲界の改革をしようと動く彼は、出世はできなかったものの
国民の人気は非常に高いのものでした。
活動を続ける中、
2015年定期検診で膵臓癌がみつかり治療するも、
再発した癌により2016年7月31日に61歳の若さでこの世を去ります。
早すぎる死を迎えた千代の富士ですが、
彼の輝かしい伝説は永遠に相撲史に刻まれることでしょう。
プロはいかなる時でも、言い訳をしない。
【千代の富士の相撲が伝説になったワケとは?】
千代の富士が伝説と呼ばれた理由とはどこにあるのでしょうか。
・大記録の数々
先天的に脱臼しやすい左肩を持ちながらも
通算勝利数1045勝、幕内勝利数807勝という
当時の史上1位の記録を達成します。
横綱になった1981年には
関脇、大関、横綱まで上がる「ウルフフィーバー」を起こし、
その年それぞれ優勝するという史上初の記録を作りました。
さらに落ち目と言われた1988年は
5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝の連勝記録を作ります。
こうした記録から相撲界初の国民栄誉賞を受賞したことが
千代の富士を伝説にしたのです。
・アイドル的な横綱
183cm・126kg、体脂肪率10.3%と均整のとれた体格と
精鍛な顔つきで「ウルフ」と呼ばれた千代の富士。
強くてかっこいい、アイドル的な横綱として
伝説となります。
また過酷なトレーニングでボディービルダーのような体格を維持し、
その筋肉と技で彼より大きい力士を倒していきます。
筋肉質な彼の筋肉は大きな注目を集めました。
・惜しまれた引き際
千代の富士の引退は
あと1回優勝すれば大鵬の優勝32回に並ぶというところでのことでした。
新鋭・貴花田と対戦した千代の富士は体力、気力の限界だと決意したのです。
巷では大記録手前の引退を惜しむ声が高くありましたが、
千代の富士自身は記録に対して
「遠い記録だったが近づけただけで満足」だと言っています。
潔い千代の富士の引き際は
彼の相撲人生をさらに伝説的なものにしたのです。
実力と人気の両方を兼ね備えた偉大な横綱として
伝説の存在となったのです。
【まとめ】
・千代の富士は昭和最後の伝説的な大横綱
・歴代3位の通算31回の幕内優勝
・通算勝利数1045勝で当時の史上1位を記録
・大相撲で初となる「国民栄誉賞」が授与される
・引退後、九重部屋を継承
・日本相撲協会の理事を務める
実力と人気で千代の富士は相撲界のレジェントとなりました。
いま強くなる稽古と、三年先に強くなるための稽古の両方をしなくてはならない
1955年6月1日 北海道松前郡福島町で誕生
1968年 盲腸炎の手術を受けた際に
病院長が若狭龍太郎に連絡し、千代の山が入門の勧誘を受ける
気があまり乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断る
飛行機にどうしても乗りたいので家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決める
1970年 9月場所初土俵を踏む
11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名する
1971年 1月場所で「千代の冨士」と名付けられる
4月 明治大学付属中野高校定時制へ入学。学業と相撲の両立を図る
6月 中途退学し相撲に専念する
1974年 11月場所で19歳5ヶ月にして十両昇進。史上初の5文字四股名の関取となる
1975年 昭和30年代生まれの力士として第1号の新入幕を9月場所で果たす
1976年 故障もあり、1月場所まで連続負け越しとなる。幕下まで番付を下げる
7月場所で帰り十両を果たす
1977年10月29日 九重が死去。部屋は北の富士が継承する
1978年 左肩を脱臼しやすいがだいぶ治まり、1月場所に再入幕を果たす
7月場所で新小結に昇進する
1979年 3月場所の播竜山戦で右肩をまたも脱臼する
全治1年、手術すれば2年という大けがで途中休場し入院
5月場所は休場明けで十両に下がる
公傷制度を利用できないため手術を避け、7月場所で幕内に復帰する
1980年 3月場所から幕内上位に定着する
1981年 1月場所で幕内初優勝を果たす
千代の富士の大関昇進が決定する
3月場所で2度目の優勝を果たして横綱となる
11月場所で横綱としての初優勝を飾る
1982年 3~7月の3場所連続優勝する。初の年間最多勝を記録
1985年 1月場所は全勝優勝を果たす
この年に史上3人目となる年間80勝を達成する
3年ぶり2度目の年間最多勝に輝く
1988年 5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝する
1989年6月 2月に生まれたばかりの三女・愛がSIDS(乳幼児突然死症候群)で4か月足らずで死去
9月場所には通算勝ち星の新記録を達成する
9月29日 大相撲で初となる「国民栄誉賞」が授与される
1990年 1月場所で優勝回数を30の大台に乗せる
初日に幕内通算805勝目を挙げる。当時の大相撲史上単独1位を記録
1991年 5月場所で新鋭・貴花田(のち貴乃花)との対戦後、現役引退を表明
日本相撲協会は理事会で功績顕著として全会一致で一代年寄を認めるも、
17代・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となる
1992年 1月場所後、引退相撲・断髪式が行われる
4月 九重部屋を継承する
1993年10月 先代九重との考え方の違いなどもあり弟弟子の元横綱・北勝海がに九重部屋から独立。
八角部屋を創設する。陣幕を含む部屋付の年寄全員が移籍する
自身の方が部屋を出て行く形となり、自宅を改装して部屋を新設する
1994年 日本相撲協会で審判部副部長を務める
2008年2月 ようやく理事に就任。広報部長・指導普及部長を務める
2010年 9月場所7日目に正面解説席で解説を務める
2012年 理事改選で最下位当選で再選する
2月 事実上のナンバー2である事業部長に就任
9月 総合企画部長と監察委員長も兼任
2014年 理事改選で落選
4月 職務分担で委員に降格する
2015年6月1日 還暦を迎える。
前日の5月31日に両国国技館で、北の湖以来2年ぶり10人目の還暦土俵入りをする
定期検診で膵臓がんがみつかり手術を受ける
7月 内臓疾患で7月場所を全休する
9月場所で復帰する
2016年 がんが再発。胃や肺などに転移している
7月13日 体調不良を訴え休場する
7月31日17時11分 膵臓がんのため東京大学医学部附属病院で死去