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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ユーリ・ガガーリン
世界初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗した人物。
出生国:ロシア
誕生日:1934年03月09日
命日:1968年03月27日

ユーリ・ガガーリン

地球は青かった

「地球は青かった」の名言で有名なユーリ・ガガーリン。

空を飛ぶことを叶えた人類の次なる夢、

宇宙へ行くことを人類で初めて叶えた宇宙飛行士です。

そんなユーリ・ガガーリンはどのような人物であったか、
またガガーリンが語った名言についてお伝えします。

 

【宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンとはどんな人物?】

ロシアの労働者階級出身の英雄として
人類で初めて宇宙に行くことに成功したユーリ・ガガーリンは
1934年3月9日、モスクワ西方のクルシノという村で誕生します。

幼少期は第二次世界大戦中で苦しい環境の中で暮らしていました。
終戦後、空軍から除隊してきた教師の影響で飛行機に興味をもち、
どんどん飛行機に夢中になっていき
空軍士官学校を出て空軍に入ります。

少年時代から勉強家で優秀だったガガーリンは
1959年にソ連の宇宙開発が本格化すると
世界初の有人宇宙飛行の正飛行士に任命されるのです。

そして1961年ユーリ・ガガーリンは
人類初の有人宇宙飛行を成功させました。

名言「地球は青かった」の言葉と共に
世界中にその名が知れ渡り、
ソ連の宇宙開発の広告塔として世界中の国々を回りました。

ガガーリンの功績と名言は世界の多くの人々に感動を与えたのです。

その後管理者としての道を歩み始めた最中、
経験を積むために空軍技術アカデミーの教官と
1968年3月27日に搭乗した際、

飛行中に墜落事故を起こし34歳という若さで亡くなります。

ガガーリンの死の原因は中々究明できず
政府の陰謀などともささやかれましたが、
2011年4月に機密解除されたソ連政府調査委員会の報告書で
墜落の原因について衝突を避けようとした際の事故であったと

しかし反論する人もおりはっきりとした真相は不明。

早すぎる死を迎えたユーリ・ガガーリンですが、
彼の功績、名言は今もなお世界中の人々に受け継がれています。

さあ行こう

【ユーリ・ガガーリンの名言「地球は青かった」とは?】

ユーリ・ガガーリンの名言といえば、
「地球は青かった」です。

今では地球が青いことは当たり前のように知っていますが、
ユーリ・ガガーリンが見るまでは肉眼で本当に青く見えるということは
誰にもわからなかったのです。

人類で初めて宇宙から地球を見たガガーリンのこの名言は
シンプルでありながらも感動が伝わってくる言葉ですよね。

しかし実際にはこのようには言ってないそうで、
1961年4月13日付けのイズベスチヤに掲載されたルポには原文では
「Небо очень и очень темное, а Земля голубоватая. "」となっています。

日本語に訳すと
「空はとても暗かった。一方、地球は青みがかっていた」
と言ったそうで少し違っていますね。
日本では直訳ではなくて「地球は青かった」を切り取った
キャッチーな言葉がユーリ・ガガーリンの名言として浸透しました。

しかし実際に言った言葉がキャッチーな気を引く言葉でなくても、
ガガーリンの地球を外側から見た感動は十分に伝わってきます。
それを聞いた人々もガガーリンの言葉、宇宙の謎に
少し迫ったことに感動したのです。

【まとめ】
・ユーリ・ガガーリンは世界初の有人飛行に成功した宇宙飛行士
・子供のころから真面目な勉強家であり、茶目っ気もある性格
・成功後、ソ連の宇宙開発の広告塔として世界中の国々を回る
・管理者としての技術訓練中に34歳の若さで亡くなる

ユーリ・ガガーリンは初めて宇宙にいった感動を伝え、
宇宙解明に大きく貢献した一人として後世に名を残しました。

地平線の様子は、独特なものでとても美しい。
明るく光る地球の表面から、暗黒の空への境目は比べようもないほど美しい。
暗黒の空間には星のまたたきが見える。
この境目は、とても薄いもので地球の球体を囲む膜の帯のようだった。
地球の色は、優しく光る淡い水色で、暗黒空間へとつづく境目は、とてもなめらかな曲線で美しい。
言葉では伝えにくい。
地球の影からでたとき、地平線はまた違ったようにみえた。
地平線には、明るくオレンジ色にひかる帯があり、
その色は、再び、淡い水色に、そして濃厚な黒色に変わった

1934年3月9日 ソビエト連邦モスクワ西方の村クルシノで誕生
1943年 第二次世界大戦中、兄と姉が強制労働従事の為ポーランドへ連れ去られる
1950年 モスクワの金属工場の見習いとして働く
1951年 技術教育を受ける為、サラトフの学校へ送られる
    エアロクラブに入る
1955年 工業学校を卒業
    パイロットを志しオレンブルクにあった空軍士官学校に入学
1957年 ヴァレンチナ・ゴリチェヴァと結婚
    卒業後、ノルウェー国境に近いムルマンスクの基地に配属される
1960年3月 20人の宇宙飛行士候補生の1人としてモスクワ近郊の基地に配属される
1961年4月 最終選考が行われ正飛行士に決定される
   4月12日 ボストーク3KA-2で世界初の有人宇宙飛行に成功する
1962年5月 功績が称えられ日本に招待され来日
1963年12月 宇宙飛行士訓練センターの副所長に就任する
1964年3月 宇宙飛行士として現場に戻るため、ジューコフスキー空軍技術アカデミーに入学
   10月 支持していたフルシチョフの失脚により対外的な仕事が激減する
1966年1月 師コロリョフが死去
      ソ連の宇宙開発計画が停滞していく
1967年 親友ウラジーミル・コマロフが搭乗するソユーズ1号のバックアップ要員に選ばれる
    以前から指摘していたソユーズの機能トラブルでコマロフが死去
    宇宙飛行ミッションから外される
1968年2月 ジューコフスキー空軍技術アカデミーで学位を取得する
      管理者への道に向かう
   3月 指導者として経験を積むため飛行訓練を再開した
1968年3月27日 教官と搭乗したMiG-15UTIで墜落事故を起こし34歳で死去

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