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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ポール・ゴーギャン
フランスのポスト印象派の画家。 『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』や『タヒチの女』など数々の代表作がある。
出生国:フランス
誕生日:1848年06月07日
命日:1903年05月08日

ポール・ゴーギャン

文明とは、麻痺状態のことだ

代表作自画像の「レ・ミゼラブル」や
「我々はどこから来たのか、我々は何か、我々はどこへ行くのか』を描いた
フランスのポスト印象派の画家ポール・ゴーギャン。

家族を持ち、株式仲買人として人生を成功させていたのにもかかわらず
突然画家に転身したゴーギャンの人生に迫ります。

またゴーギャンの代表作たちをご紹介します。

 

【多くの代表作を生み出した「ポスト印象派」ゴーギャンの人生】

ポスト印象派を代表するフランスの画家ゴーギャン。

波乱万丈と言われた彼の人生はどのようなものだったのでしょうか。

ゴーギャンは1848年6月7日パリで誕生します。

3歳の時に父を亡くした彼は、
祖父の故郷であるオルレアンで少年時代を過ごしました。

学校を卒業し海軍での兵役を終えると、
後見人の銀行家ギュスターヴ・アローザ紹介で
株式仲買人として働き始めます。

株式仲買人の仕事で成功した彼は家庭を持ち、
順風満帆な生活を送っていました。

そして余暇の時間に絵を描き始めるようになるのです。

ここが代表作をいくつも生んだ画家ゴーギャンの始まりです。

アマチュア画家からスタートした彼は
数々の賞を受賞していたこともあり、
1882年の株式市場の暴落を受け、画家一筋の人生を歩み始めます。

しかし株式市場の不況は絵画市場にも影響があり
作品が一気に売れなくなるのです。

彼は家族を残し、一人貧困と闘いながら制作活動に打ち込んでいきます。

『耳切り事件』を起こしたゴッホと同居したり、
南国タヒチへと移住しながら画家として活動を続けます。

彼の代表作と言われる作品はタヒチに行ってから生まれました。

しかし評価されたのは死後であり、相変わらず生活は苦しいままでした。

晩年病気の悪化により制作活動がほぼできなくなっていたゴーギャンは、
植民地行政府やカトリック教会を批判する活動をし
名誉棄損で3か月の禁固刑を受け、
その上告中の1903年5月8日結果を聞く前に
ヒヴァ・オア島で一人息を引き取りました。

成功していた仕事、家族と離れ評価されない絵を描き続け
貧困、病に苦しんだゴーギャンの人生は一見、転落人生のようにも思えます。

しかし好きなことに打ち込み、
死後幾年経っても語り継がれる名作を残した
価値ある素敵な人生だったのではないでしょうか。

芸術は、盗作であるか革命であるか、そのいずれかだ

【世界を魅了するゴーギャンの代表作〇〇選】

今もなお観るものを魅了するゴーギャンは、
現実には見えない想像の世界や観念を描くポスト印象派と
呼ばれる作品を制作していました。

そんな彼の代表作をいくつかご紹介します。

「自画像」
1888年にアルルを訪れた際、ゴッホたっての希望で
制作し送った代表作です。

この作品はフランスのロマン主義作家ヴィクトル・ユーゴーの
小説≪レ・ミゼラブル≫の主人公のジャン・ヴァルジャンに
自身を重ね不敵な笑みを浮かべているのが特徴です。

また彼自身が『未開人ゴーギャンの頭を漠然と表現したもの』だと語っていて、
孤独な彼を象徴した作品と言われています。

「ひまわりを描くフィンセント・ファン・ゴッホ」

アルル滞在期に共同生活をしていた
後期印象派を代表する画家ゴッホが
名作「ひまわり」を作成している姿を描いた作品です。

ゴッホは非常に苦悩した様子で神経質な表情を浮かべおり、
完成後に本作を見たゴッホは
気が狂った時の私の姿を描いたと激怒します。

元々制作スタイルに相違があり悪化していた関係が
決定的なものになります。

この作品が大きな要因のひとつとなり耳切り事件が起こりました。

「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」

ゴーギャンが自身の集大成として自殺を決意し、
遺言的作品として描いた代表作です。

幅3メートルに及び、右、中央、左と三つの部に別れたこの作品は
ゴーギャンの死生観を描いたまさに集大成と言える作品です。

この後、毒で自殺をはかったゴーギャンですが失敗に終わり、
再び制作活動に取り組みます。

印象派から独自の画風を確立したゴーギャンはこの他にも
名作と呼ばれる作品を多数残しています。

 

【まとめ】
・ポール・ゴーギャンはフランスのポスト印象派の画家
・成功していた株式仲買人の仕事を辞め画家に転身した
・印象派から独自の画風を作り制作活動を行った
・貧困や病に苦しみながら絵を描き続けた

ポール・ゴーギャンは独学で始めた画家でありながら、
後世に受け継がれる素晴らしい作品を数多く残しました。

私は、愛したいと思いながら、それができない。
私は、愛すまいと思いながら、それができない

1848年 フランス、パリで誕生
1851年 ナポレオン3世のクーデターによりペルーへ向かう途中、父が死去
    母と姉と共にリマで暮らすことになる
1855年 一家はフランスに戻りる。父方の祖父を頼りオルレアンで暮らす
1867年7月7日 母が死去
1868年 兵役の為、フランス海軍に入隊する
1871年 パリ証券取引所で株式仲買人として働く
1873年 デンマーク人女性メット=ソフィー・ガッドと結婚する
    余暇に絵を描き始める
1876年 作品の一つがサロンに入選する
1879年 株式仲買人の仕事で3万フランの年収を得る。絵画取引でも同程度の収入を得る
1882年 パリの株式市場が大暴落し、画商から絵の買い付けを停止される。収入激減
1884年 一家は生活の立て直しを図るためルーアンに移住
     その後デンマークのコペンハーゲンに移住  
1885年 息子を連れてパリへ戻る
1886年5月 第8回印象派展に19点の絵画と1点の木のレリーフを出展する
1887年 友人と共に6月から11月までの約半年マルティニークのサン・ピエールに滞在する
    マルティニークで12点前後の作品を制作する
1888年 南仏アルルのファン・ゴッホの「黄色い家」で9週間にわたる共同生活を送る
   12月23日 関係が悪化していたゴッホの耳を切る事件を起こす
        アルルを去る
1891年4月1日 ヨーロッパ文明から脱出する為、タヒチに向かい出航する
        傑作とよばれる作品を描く
1892年 現地で妻としていた13歳の少女が妊娠。流産する
1893年8月 フランスに戻る。タヒチの題材をもとに作品を制作する
1894年 紀行文『ノア・ノア』のために実験的手法による木版画を試みる
   11月 ポール・デュラン=リュエルの画廊で展示会を開く
      展示された40点中11点が高値で売れ成功を収める
1895年 パリで作品の売立てを行うが失敗する
   4月 開会した国民美術協会のサロンに陶製彫像『オヴィリ』を出品。かろうじて入選
     妻メットとの破局する
1895年6月28日 再びタヒチへ向かう
        パペーテ周辺の画家コミュニティで暮らす
1897年4月 娘アリーヌが肺炎で死去
1900年2月 『Les Guêpes』の編集者に就任する
    自ら傑作と認める『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を制作する
    服毒自殺を図るが失敗に終わる
1901年 マルキーズ諸島のアツオナ村に移住する
1903年初頭 島駐在の国家憲兵たちの無能力や汚職を告発する活動をする
   3月27日 国家憲兵たちに名誉棄損で訴えられ、罰金500フラン、禁錮3か月の判決を受ける
        すぐに控訴する
   5月8日 死去する

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