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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ペレ(エドソン・アランチス・ド・ナシメント)
サッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝。 その実績から『サッカーの王様』や『20世紀最高のサッカー選手』とも呼ばれる。
出生国:ブラジル
誕生日:1940年10月23日

ペレ(エドソン・アランチス・ド・ナシメント)

ペレは死なない。

「サッカーの王様」と言われ、数々の伝説を作ったエドソン・アランチス・ド・ナシメント。
「ペレ」の愛称で知られる彼は、たった15歳でプロのピッチに立つなど、
早々に天才的な才能を発揮していました。

王様と呼ばれるにふさわしいペレが残した伝説の数々を
ご紹介していきましょう。

 

【歴史に残る伝説を残したペレの生涯】

生ける伝説と呼ばれる、サッカー界のスーパースター、ペレ。

本名エドソン・アランテス・ド・ナシメントは
1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで誕生します。

バウルというブラジルのスラムで育った彼は
貧しい生活の中、毎日のように友達と
洗濯物を丸めたボールでサッカーをしていたそうです。

1950年。自国開催のワールドカップで優勝確実と言われていた
ブラジルは優勝を逃し、国民全員が落胆します。

ペレの父もまたひどく落胆していました。

そんな父に向って9歳のペレは
「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」
と約束を交わします。

その約束通りプロに進み
1958年には、スウェーデン開催のワールドカップで、17歳の若さでブラジル代表に選出。
チームに大きく貢献し、初優勝を果たしました。

「新たなキングの誕生」と言われ、世界のスーパースターとなったペレ。

しかし、彼の才能は他のチームに強く警戒され、
時には度重なる妨害や、執拗なマークを受けることもありました。

そんな逆境にも挫けることなく、3度のFIFAワールドカップ優勝に貢献。

現役22年間で出場した1363試合の中で、1281得点を記録するなど
20世紀最高のサッカー選手として知られているのです。

多くの伝説を残したペレは、1971年に現役を引退したのち
国際サッカー連盟 (FIFA) の大使、フェアプレー委員会の一員、
国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使を務めました。

どこに行っても誰もが知っている三つのものがある。
イエス・キリスト、ペレ、それとコカ・コーラさ。

【サッカーの神様ペレの伝説の数々】

20世紀最高のプレーヤーと言われるペレは
数多くの伝説を残したことでも知られています。

今回はその中から、代表的な伝説をいくつかご紹介しますね。

<背番号10をエースナンバーにしたのはペレだった?>

サッカーでは、背番号10番はエースナンバーとして知られています。
その概念を作った人物こそが、ペレだと言われているのです。

1958年に開催されたワールドカップ・スペイン大会で
抽選で割り振られた背番号10を背負い出場。
当時は、10番には深い意味はありませんでした。

その試合でペレは「新たなキングの誕生」と言われるほどの大活躍をし、
ブラジルに初優勝をもたらしました。

この活躍により、ペレが付けていた背番号10番が
サッカー界でエースナンバーとして使われ始めたのです。

<戦争を休戦させてしまった?>

1969年1月。アフリカでは、コンゴ共和国とコンゴ民主共和国の間で戦争が起きていました。
しかし、その戦争を一時休戦させてしまったのが、コンゴに遠征していたペレだったのです。

その理由は「ペレの試合が見たいから」というもの。

また、次に向かったナイジェリアでも、同じ理由でビアフラ戦争を停戦させてしまいます。
さらに両軍は、ペレが滞在する首都ラゴスへの侵攻は行わないと決めたのです。

ペレのプレーは、国を動かしてしまうほどに人々を魅了していたのでしょう。

<イエローカード・レッドカードを生み出したのもペレだった?>

今では当たり前に使われている
「イエローカード」「レッドカード」が生まれたきっかけを作ったのも、ペレだと言われています。

ペレがあまりにも強すぎたため、
他のチームからの執拗なマークや乱暴なプレーが増えていきました。

いきすぎた行為を防ぐために導入されたのが、
イエローカードとレッドカードです。

サッカーのルールを変えてしまうほどに、ペレは特異な選手だったというわけですね。

【まとめ】
・ペレはサッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝した
・現役時代に通算1363試合に出場し1281得点を記録
・サッカーの王様と呼ばれる
・サッカー史に残る伝説をいくつも作る

サッカー史上最高の選手の一人と呼ばれるペレ。
「父の願いを叶えたい」という願いから始まった彼の伝説は、
今もなお色あせることなく、人々に語り継がれているのです。

人々に教育を受けさせなければ、彼らは簡単に操られてしまうだろう。

1940年10月23日 ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで誕生
1944年 サッカー選手であった父のチーム移籍に伴いサンパウロ州に移住
1950年 父にいつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげると約束をする
1954年 創設された地元バウルACの下部組織(通称バキーニョ)に入団
1956年 サントスに入団
   9月7日 コリンチャンスとの親善試合でデビューを果たす
1957年 サンパウロ州選手権で得点王となる
   4月8日 正式契約を結ぶ
1958年 ブラジル代表としてワールドカップ・スウェーデン大会に出場。初優勝に貢献する
1959年 サッカーをしながらも兵役としてサントスの沿岸防衛部隊に配属される
1961年3月5日 「ゴウ・ジ・プラッカ」と言われる
        ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされていたゴールを
        リオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦で決める
1962年 ワールドカップ・チリ大会出場。会2連覇を成し遂げる
    ブラジル勢として初のタイトルを獲得 
    クラブ世界一となる
1966年 ワールドカップ・イングランド大会に出場。負傷退場し三連覇を逃す
    最初の結婚をする
1969年11月19日 CRヴァスコ・ダ・ガマ戦で1000得点を達成
1970年 ワールドカップ・メキシコ大会に出場。3度目の優勝を果たす
1973年 ペプシコーラと世界中の子供たちを対象とし
    「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結ぶ
    世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努める
1974年10月2日 サントスFCを退団
1975年 北米サッカーリーグ (NASL) に所属するニューヨーク・コスモスに移籍
1977年 北米選手権のタイトルを獲得
   10月1日 コスモス対サントスFC戦で引退する
   引退後、国際サッカー連盟 (FIFA) の大使、フェアプレー委員会の一員となる
   国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使に任命される
1978年 公開された映画『Os Trombadinhas』で脚本を担当する
    妻と離婚する
1980年9月24日 ベッケンバウアー引退記念試合に出場
1981年 公開された映画『勝利への脱出』でサッカーシーンのテクニカルアドバイザーを担当する
1987年1月 ブラジルで開催されたシニア・ワールドカップに出場
1990年10月31日 生誕50周年を祝してイタリア・ミラノで記念試合が行われ出場
1994年4月 心理学者でゴスペル歌手のアシリア・セイシャス・レモスと再婚
1995年 サンパウロ市が11月19日を「ペレの日」と制定
    スポーツ大臣に就任。ブラジル史上初の黒人閣僚となる
1998年 イギリス政府から大英帝国勲章を授与される
2001年3月26日 ペレが制定に取り組んでいたペレ法が施行される
2010年8月1日 ニューヨーク・コスモスが再建され名誉会長に就任
2016年 日系ブラジル人の実業家マルシア・シビーリ・アオキと3度目の結婚をする

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