ヘンリー・モートン・スタンリー
私こそが、私自身の一番の証拠である。
デイヴィッド・リヴィングストンを発見したことで有名な
ジャーナリスト兼探検家ヘンリー・モートン・スタンリー。
探検家として特にコンゴの探検での成果は偉大なものでした。
そんなヘンリー・モートン・スタンリーとは
どんな人物であり、どのような功績を残したのかをお伝えしていきます。
【探検家ヘンリー・モートン・スタンリーとは?】
探検家として有名なヘンリー・モートン・スタンリー。
彼は1841年1月28日にイギリス・ウェールズで誕生しました。
出生の時の名前はジョン・ローランズでした。
しかし父親が2歳の時に亡くなってから家庭では養育してもらえず、
セント・アサフの救貧院で育ち、18歳でアメリカへと渡ります。
そして、ニューオーリンズの商人ヘンリー・モートンの養子となり、
ヘンリー・モートン・スタンリーと改名。
その後はインディアン和平委員会の大佐の誘いを受け、
ジャーナリストとして複数紙の海外特派員となります。
すぐに専属でイギリス軍のアビシニア遠征の従軍記者となったスタンリー は、
遭難していたスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストンの
捜索に加わるように要請を受けました。
捜索隊の出発から1年半以上経った頃、とうとうリヴィングストンを発見。
この功績は大きく取り上げられ、
王立地理学会から金メダルが贈られました。
1874年からはアフリカ探知で成果を上げるだけでなく
現地の首長たちと条約を交わし、
後にイギリス国会議員となるなど政治にも携わりました。
探検家としての不屈の精神と
敵対している人への容赦ない態度から「岩を砕く人」とよばれた
ヘンリー・モートン・スタンリーは
当時ヨーロッパで暗黒大陸と呼ばれていたアフリカを
開拓した、勇敢な探検家として後の世に名を残しているのです。
Dr. Livingstone, I presume?(リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?)
【ヘンリー・モートン・スタンリーの探検家としての功績】
ヘンリー・モートン・スタンリーの探検家としての功績を
具体的に見ていきましょう。
*遭難していたデイヴィッド・リヴィングストンの発見
ヘンリー・モートン・スタンリーの名を一躍有名にした出来事です。
『ニューヨーク・ヘラルド』の専属ジャーナリストをしていた頃に、
遭難中のスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストン
の捜索に1870年に加わり、
1871年11月10日タンガニーカ湖畔のウジジで発見します。
1872年7月にイギリスに戻り
『ニューヨーク・ヘラルド』と『デイリー・テレグラフ』に
手記を公表したことで彼は一躍有名となり、
翌1873年には王立地理学会から金メダルを贈られました。
彼が発見した際に発した
「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」が
イギリスで思いがけず人と対面した時の慣用句として使われるほど
大きな出来事でした。
*コンゴ探知
・ビクトリア湖、アルバート湖を経てアフリカを横断、
コンゴ川の流路を確認する
・文明化をもたらす名目で派遣され、現地の首長たちと条約を交わす
この建設した道路は奴隷貿易に利用された為、
批判を受けることにもなりました。
・1889年ヨーロッパ人として初めてルウェンゾリ山地を目撃する
彼はナイル川の水源をこの山地とし、
ルウェンゾリ山地の最高峰は
スタンリー山群 (Mount Stanley, 5109m)と名付けらました。
探検家ヘンリー・モートン・スタンリーらの活躍により
良くも悪くも
ヨーロッパとアフリカは繋がったのです。
【まとめ】
・イギリスのジャーナリスト、探検家
・遭難したデイヴィッド・リヴィングストンを発見したことで有名
・アフリカの探検で大きな成果を上げる
・ヨーロッパ人として初めてルウェンゾリ山地を目撃する
・「岩を砕く人」とよばれた
ヘンリー・モートン・スタンリーは
危険を省みず、探知や人名救助を行った
勇敢な探検家として知られる人物なのです。
神様のおかげで(リヴィングストン博士に)お会いすることを許されました
1841年1月28日 イギリスのウェールズ北部デンビーで誕生。名前はジョン・ローランズ
1843年 父親が死去
. 母親が彼の世話をしなかったため、5歳まで祖父の元で暮らす
1847年 15歳までセント・アサフの救貧院で暮らす
初等教育終了後、ナショナル・スクールで学生教師となる
1859年 アメリカに渡り、ニューオーリンズで商人ヘンリー・モートンの養子となる
ヘンリー・モートン・スタンリーに改名
1867年 複数紙の海外特派員となる
すぐに『ニューヨーク・ヘラルド』の専属となり、
イギリス軍のアビシニア遠征の従軍記者となる
1869年 ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアにデイヴィッド・リヴィングストン捜索に加わるように要請される
1870年 デイヴィッド・リヴィングストン捜索に加わる
1871年11月10日 タンガニーカ湖畔のウジジでリヴィングストンを発見した
1872年7月 イギリスに戻る
『ニューヨーク・ヘラルド』と『デイリー・テレグラフ』に手記を公表する
1873年 消息不明のリヴィングストンを発見したことを称え、王立地理学会からパトロンズ・メダルが贈られた
1876年 ベルギー王レオポルド2世の私的団体である国際アフリカ協会の依頼で現地の首長たちと条約を交わす
1874年 『デイリー・テレグラフ』と共同出資し、ビクトリア湖、アルバート湖を経て
アフリカを横断しコンゴ川の流路を確認した
1877年8月9日 ポルトガル領であるコンゴ川河口に到着する
1889年 ヨーロッパ人として初、ルウェンゾリ山地を目撃した
1895年 イギリス国会議員となる
1904年5月10日 死去