
フローレンス・ナイチンゲール
天使とは、美しい花をまき散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である。
「クリミアの天使」の名で知られるフローレンス・ナイチンゲールは、
1820年5月12日に、両親の新婚旅行先であるフィレンツェで生まれました。
裕福な家庭で育ったナイチンゲールは、何不自由なく暮らすのですが、
慈善訪問の時に出会った貧しい人々の生活に触れる内に、
自分も何か彼らの役に立ちたいと考えるようになります。
看護師を志すようになったナイチンゲールは、ロンドンの病院へ就職。
現在と違い、1800年中頃までの時代は、看護師とは
「患者の身の回りの世話をする使用人」であるという認識が一般的でした。
そのため、看護師には特別な教育も必要なく、地位も低く見られていたのですが、
その現状に意義を唱えたのがナイチンゲールでした。
看護師への専門的な教育が必要だと訴え続けるナイチンゲール。
そんな時、転機が訪れます。
1854年に起きたクリミア戦争で、
負傷した兵の扱いがあまりにひどい事が世間へと知れ渡ったのです。
病院の環境の改善のため、自らも看護師として従軍することを決めたナイチンゲール。
彼女は、シドニー・ハーバート戦時大臣からの依頼により、
クリミアの兵舎病院へと赴く事となります。
ナイチンゲールが看護師として向かった病院は、
衛生状態が非常に悪く、物資の供給もままならないという、ひどいありさまでした。
物事を始めるチャンスを、私は逃さない。
たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある。
ヴィクトリア女王の手助けを得て、ナイチンゲールは病院内の衛生状態を改善。
この活躍により、不衛生から来る感染症の数が一気に減り、
2月時点では42%もあった死亡率が、3ヶ月後の5月には5%まで減少しました。
これらの活躍から、ナイチンゲールは「クリミアの天使」と呼ばれ、
国民から英雄視されるようになりました。
現在よく使われている「白衣の天使」は、この言葉が語源になっていると言われています。
イギリスの英雄となったナイチンゲールでしたが、
本人は自身が英雄視されることを望んでいませんでした。
必要以上に褒め称えられることを避けたがったナイチンゲールは、
「スミス」という偽名を使いイギリスに帰国。
1856年には、まだ円グラフや棒グラフがない中、独自のグラフを使い、
病院の現状を分析。
改善に努めました。
このことから、ナイチンゲールはイギリスにおいての「統計学の先駆者」と呼ばれるようになったのです。
晩年、ナイチンゲールは本の原稿や手紙を書いて過ごし、つつましく過ごします。
そして、1910年8月13日にバーンレーンにある自宅で息を引き取りました。
看護師への教育の重要性をを説き、病院内の衛生面の改善、そして統計学の先駆者ともなったナイチンゲールは、
最後まで自分が有名人扱いされるのを嫌い、
墓標には自らのイニシャル以外は何も書かないように遺言書に記したと言われています。
あなた方は進歩し続けない限りは退歩していることになるのです。
目的を高く掲げなさい。
1820年5月12日 両親の新婚旅行中、トスカーナ大公国の首都フィレンツェで生まれる
1847年 ローマへ旅行中、ローマの保養所の所長をしていたシドニー・ハーバートと知り合う
1851年 ドイツのカイゼルスベルト学園に滞在
1853年 ロンドンの病院で看護師として就職
1854年 クリミア戦争勃発
シドニー・ハーバート戦時大臣からの要請により、クリミアの兵舎病院で看護師として就任
1855年5月 衛生面の改善により、2月には42%だった死亡率が5%に減少
1856年3月30日 パリで平和条約が締結される
4月29日 クリミア戦争終結
7月16日 入院中だった最後の患者が退院
8月6日 ナイチンゲール、英雄視されるのを嫌い、スミスという偽名を使い秘密裏にイギリスに帰国
11月 バーリントンホテルにチームを集め、病院の状況分析をはじめる
独自のグラフを生み出し、イギリスにおいて「統計学の先駆者」と呼ばれるようになる
1857年 心臓発作で倒れるも、一命を取り留める
1859年 イギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれる
1860年 ナイチンゲール看護学校設立
1874年 父が80歳で死去
1880年 母が91歳で死去
1890年 姉が71歳で死去。以後、自宅で過ごすことが増える
1901年 病により、完全に失明する
1907年 女性として初めてのメリット勲章を授かる
1910年8月13日 バーンレーンの自宅にて、ナイチンゲール死去。享年90歳