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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

フレデリック・ショパン
ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。 『子犬のワルツ』や『幻想即興曲』などで知られる。
出生国:ポーランド
誕生日:1810年03月01日
命日:1849年10月17日

フレデリック・ショパン

自分の耳が許す音だけが音楽である。

ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する、作曲家兼ピアニストである、
フレデリック・フランソワ・ショパン。

ピアノ独奏曲を数多く作り、
ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた
作曲家ショパンの生涯と人物像に迫ります。

【作曲家ショパンとはどの様な人物?】

世界中で親しまれる名曲を生み出したショパンとは、
一体どのような人物だったのでしょうか?

幼い時からピアノを習っていたショパンは、当時から「神童」と呼ばれていました。

一度聞いただけで曲を完璧に覚えてしまうばかりでなく、
7歳という若さで「ポロネーズ11番」を作曲しています。

その才能は音楽だけでなく、
ものまねや漫画など、多岐にわたるものでした。

また、ユーモアに溢れるショパンは、学校ではクラスの人気者と、
まさに神童の名にふさわしい少年期を送っていたのです。

早くから音楽家として成功していたショパンでしたが、
その人生は順風満帆とは言えないものでした。

あらゆる面で恵まれていたショパンですが、
生涯を通じて肺結核に悩まされる人生を、送っていたのです。

ユーモアで活発だった一方で
非常に繊細で傷つきやすい性格だったとも言われているのは
この病弱な身の上が関係しているのかもしれません。

しかし、その繊細さは作曲に生かされ、
ショパンならではの独創的な曲は、今もなお多くの人々に愛され続けているのです。

肺結核により39歳の若さでこの世を去ったショパンの心臓は、
その遺言に沿い、
クラコフスキ区の聖十字架教会のレオナルド・マルコーニ作の
エピタフの下の柱に収められました。

常識というが、これは非常に小さな要素に違いない。
というのは常識がぼくの頭からすべてのほかの考えを引き出すほど強力なものではないのだから。

【作曲家として活躍したショパンの生涯】

ピアノの詩人と呼ばれた作曲家ショパンの
「波乱に満ちた」と言われる生涯はどんなものだったのでしょうか。

ショパンは、1810年
ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラで誕生します。

父のニコラ・ショパンも音楽家であり
ニコラの経営する寄宿学校に招かれた音楽家ジヴニィから
ショパンは音楽の指導を受け始めました。

順調に音楽家として飛躍していくショパンでしたが、
そんな彼を深い悲しみが襲うことになります。

1830年、ロシア帝国の支配に対する反乱である「11月蜂起」が起きたことで
ウィーンでは反ポーランドの風潮が高まります。

その結果、ショパンはろくに演奏の機会が与えられなくなり、
愛する故郷を離れることとなってしまったのです。

結果として「11月蜂起」は失敗し、
ショパンはその失敗をなげき「革命」という曲を作り上げています。

そのような出来事があったものの、
移住先のパリでもショパンの才能は認められ、その名は社交界に知れ渡ることとなります。

晩年は病に苦しみつつ、
生涯を通し200曲以上も作曲しました。

ピアノの詩人とも呼ばれ、数多くのピアノ独奏曲を作曲したショパン。
彼の曲はクラシックファンのみならず、多くの人々に愛されて続けているのです。

【まとめ】
・ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家、ピアニスト
・作曲したほとんどの曲がピアノ独奏曲
・生涯に渡って肺の病に悩まされる
・1988年からポーランドで発行されていた5000ズウォティ紙幣の肖像画となる
・2010年にショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行される
・2001年、ポーランド最大の空港が「ワルシャワ・ショパン空港」に改名される

私は自分のための新しい世界を創造する。

1810年 ワルシャワ公国中央のジェラゾヴァ・ヴォラで誕生する
1816年 ヴォイチェフ・ジヴヌィの指導を受け始める
1817年 7歳にして現存する最初の作品『ポロネーズ ト短調』を作曲・出版する
1818年 ワルシャワではじめての公開演奏をする
1823年 ユゼフ・エルスネルから対位法・和声学を学ぶ
1826年 ワルシャワ音楽院に入学する
1829年 ワルシャワ音楽院を首席で卒業する
    ウィーンで演奏会を開く
1830年  ウィーンへ移住する
1831年 パリへ移住する
1837年 求婚していたマリア・ヴォジンスカとの婚約が破棄される
1838年11月8日  1839年2月13日まで滞在したマヨルカ島でジョルジュ・サンドと式を挙げる
1847年 サンドとの10年に及ぶ関係が終わりを迎える
1848年4月 パリで革命が進行中だった為、ロンドンへ演奏旅行に旅立つ
   11月 パリに戻る
1849年10月18日 慢性的な肺の病気により死去

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