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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

チャールズ・チャップリン
『喜劇王』の異名をもつ、コメディアン。 俳優や映画監督など、多岐に渡り活動していた。
出生国:イギリス
誕生日:1889年04月16日
命日:1977年12月25日

チャールズ・チャップリン

無駄な一日。それは笑いのない日である。

喜劇王チャールズ・チャップリン。

彼はコメディアン、映画監督としてだけでなく、
自身で監督した映画「独裁者」の中で政治的な演説を
するなど政治的活動をしたことでもとても有名です。

今回はチャップリンの人物像と共に
世界に衝撃を与えた「独裁者」での演説についてご紹介します。

 

【「独裁者」で有名なチャップリンとはどんな人物?】

サイレント映画時代に世界中で人気を博したチャールズ・チャップリン。

喜劇王と呼ばれる一方で「独裁者」で政治的な演説をするなど、
政治にも関心があった彼は一体どんな人物だったのでしょうか。

チャップリンの子供時代は喜劇王に似つかわしくない過酷なものでした。

両親が離婚し、母親は病がちで何度も孤児院を
出たり入ったりの日々を送っていました。

そんな彼は舞台俳優をしていた両親の影響で自らも舞台の道に進みます。

名門フレッド・カーノー劇団で
彼のコメディアンの才能が花開き、花形として活躍しました。

そしてチャップリンを一躍世界的スターにしたのが
映画「小さな放浪者」でのお馴染みの
チョビ髭に山高帽の装いの放浪紳士チャーリーです。

世界中で人気になった彼ですが、
それだけでは満足できないストイックな性格で、
演者、監督、脚本など映画製作のすべてに
携わるようになります。

チャップリンの作風は喜劇の中にも現実を描き、社会へ向けてメッセージを
発信する映画でした。

そんな中生まれたのが映画「独裁者」です。

この「独裁者」はラストキャラクターを捨てて、
戦争とファシズムに反対する5分間の演説をしたもので
共産主義的傾向の疑いで強く非難されるようになります。

さらに私生活でのスキャンダルも重なり
スターから一転、人気急落、
さらにアメリカを国外追放までされてしまい、
晩年はスイスで暮らしました。

ですが彼は人生の晩年83歳の時に
第44回アカデミー賞の名誉賞を受賞し、名誉を回復させます。

チャーリーは映画の中の喜劇や演説を通して
幅広い人に笑いと社会に対しての問題定義をした
コメディアンであり監督でした。

行動を伴わない想像力は、何の意味も持たない。

【映画史に残る「独裁者」の演説とは?チャールズ・チャップリン】

喜劇王チャップリンが監督、脚本、主演を手掛けた
チャップリン映画初の完全トーキー作品「独裁者」。

この映画は1930年頃から1945年頃まで
ナチス・ドイツで続いたナチズムを批判した作品で、
ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコメディを混じえながらも
シビアな現状を描きました。

モチーフとなったのはナチス政権の独裁者ヒトラーです。

チャップリンはヒトラーを模倣した役柄を演じてました。

実際のヒトラーとチャップリンもかなり容姿が似ていて
誕生日も近かったことでも話題になります。

そして映画史に残る演説はクライマックスの5分間で流れます。

独裁者と間違えられた主人公が兵士の前で演説をすることになり、
そこで彼は現実にも通ずる平和主義、反戦を訴えるのです。

この映画はチャップリンの作品の中で最も商業的に成功した作品であり、
アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、助演男優賞脚本賞、作曲賞にノミネートされ、
ニューヨーク映画批評家協会賞では主演男優賞を受賞しました。

しかし当時のアメリカは第二次世界大戦争中であり、
反戦を願うこのメッセージは
チャーリーに共産主義の疑いと
アメリカ国外追放をもたすことになります。

「独裁者」は自らを危険を顧みず、
平和への訴えを訴えた名作なのです。

 

【まとめ】
・チャールズ・チャップリンはイギリス出身の映画俳優、映画監督、
脚本家、映画監督、作曲家である
・喜劇王と呼ばれる
・「小さな放浪者」でのちょび髭をはやし山高帽に大きなドタ靴、
ステッキという扮装のキャラクターで世界的に人気となる
・共産主義的傾向の疑いで非難され、アメリカを国外追放される
・第44回アカデミー賞で名誉賞を受賞する

世界的に影響力のあったチャールズ・チャップリンが
エンターテイメントを通して社会に問題定義した作品たちは
映画史に残る名作です。

私が想像できる最も悲しい事は、ぜいたくに慣れてしまうことだ。

1889年4月16日 イギリスで誕生
1891年 両親が別居 母ハンナと暮らす
1894年 女優母ハンナの舞台で急遽芸をすることになり舞台デビュー
1896年 貧困の中母が病気になった為、ランベス救貧院に収容される
    すぐにハンウェルの孤児や貧困児のための学校に移る
1898年 学校を退学する
   7月 ランベス救貧院に再び収容される
      すぐにノーウッドの貧困児のための学校に移る
   9月 母が栄養失調と梅毒が原因で精神病を発症し、ケイン・ヒル精神病院
      その為ノーウッドの学校を退学し、ケニントンに住んでいる父のチャールズに引き取られる
   11月 母の体調が回復し、再び一緒に暮らし始める
   木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズの座員となる
1901年 父が肝硬変のため死去
1903年 ウエスト・エンドにある俳優周旋所に名前を登録する
    まもなくして舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられる
1906年 新しい劇団に所属する。花形コメディアンとして活躍する
1907年 退団
1908年2月 劇団に所属していた兄シドニーの紹介で名門フレッド・カーノー劇団と契約
1913年9月25日 週給150ドルでキーストン社と契約
1914年 2月2日公開の『成功争ひ』で映画デビューし、第一級のコメディアンと賞賛される
    2作目「小さな放浪者」で世界的に有名になる
    4月20日公開の『恋の二十分』で映画監督デビュー
    キーストン社との契約満了後、シカゴのエッサネイ社に移籍する
1915年12月 エッサネイ社との契約満了。
1916年2月1日 年収67万ドルでミューチュアル社と契約。世界で最も給料が高い人の一人となる
   3月 自身の専用スタジオ「ローン・スター・スタジオ」を開設
1917年6月17日 新しく設立されたファースト・ナショナル社と「100万ドル契約」と呼ばれた配給契約を結ぶ
1918年1月 自身のスタジオであるチャップリン・スタジオが完成
    10月 17歳の女優ミルドレッド・ハリスと結婚する
1919年2月5日 フェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィスと新会社ユナイテッド・アーティスツを設立
   7月7日 息子ノーマン・スペンサー・チャップリンが誕生。奇形の為、3日後に死去
1920年11月 ミルドレッド・ハリスと離婚する
1923年 ファースト・ナショナル社との契約満了
    完全に独立し自由な映画作りを行うこと
1924年11月26日 16歳の女優リタ・グレイと2度目の結婚する
1925年5月5日 長男チャールズ・チャップリン・ジュニアが誕生
1926年3月30日 次男息子シドニー・アール・チャップリンが誕生
1927年 リタ・グレイと離婚
1928年8月 病気の再発の為、闘病していた母が死去
1929年 『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で第1回アカデミー賞名誉賞を受賞
1931年 16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出る
1936年 旅行中の広東で女優ポーレット・ゴダードと3度目の結婚をする
1940年10月 ヒトラーを風刺した映画『独裁者』公開。チャップリン映画で最高の興行収入を記録する
1941年2月27日 『独裁者』が第13回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、脚本賞など5部門でノミネートされる[221]。
1942年 ポーレット・ゴダードと離婚
1943年 無名の女優ジョーン・バリーから子供の父権認知の訴訟を起こされる
   6月16日 ウーナ・オニールと結婚する
1944年3月21日 マン法違反の疑いで裁判にかけられる
   12月 ジョーン・バリーが起こした子供の父権認知の裁判が始まる
1945年4月 判決がでる。チャップリンが父親であると認定される
1947年4月 公開した『殺人狂時代』で資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判し、政治的主張をする
       政治的姿勢が共産主義的であると非難され、FBIから公式に調査される
1948年3月20日 『殺人狂時代』が、第20回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされる
1952年9月17日 イギリスへ向けてニューヨークを出航したが、
        政治的、道徳的問題で再入国の許可がでず国外追放される
1953年1月 スイスに移住する
1964年9月 『チャップリン自伝』を刊行する
1972年 映画芸術科学アカデミーでアカデミー名誉賞を授与される
1975年3月 イギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を与えられる
1977年12月25日 自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で死去

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