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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

スティーヴン・スピルバーグ
『ジュラシックパーク』や『E.T.』など数々の名作を生み出した映画監督
出生国:アメリカ
誕生日:1946年12月18日〜

スティーヴン・スピルバーグ

僕は、夜に夢を見るんじゃない。
一日中夢を見ているんだ。
生きる糧として、夢を見ている。

1946年、スティーヴン・スピルバーグはオハイオ州シンシナティで生まれました。

13歳のとき、家族旅行の撮影係を任されたのがきっかけで、
幼い頃から8ミリカメラで自主作品を制作していたと言われています。

ユダヤ人であったことと、学習障害があることが原因でいじめられていた過去があり、
さらに、両親の離婚を経験するなど、順調とは言えない子供時代を過ごしました。
これらのことが後の作品に大きな影響を及ぼしたと言われています。

17歳の時、ユニバーサル・スタジオをバスで回るツアーに参加した際、
ツアーを抜け出し、スタジオ内を1人で探索している時にスタジオのスタッフと知り合い、3日間の通行証をもらいます。

スピルバーグはその通行証を使い、たった3日間で人脈を作り、
その後スタジオには顔パスで入れるようになりました。

1965年からは、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校で映画を専攻するかたわら、
大学が休みになると頻繁にユニバーサルへ潜り込んでいました。
ついには空き部屋だった掃除小屋を自分のオフィスにしてしまい、ユニバーサルに居候を始めます。

その後、デニス・ホフマンに出資してもらい完成させた「アンブリン」がユニバーサルテレビ部門の責任者シドニー・シャインバーグの目に止まり、
スピルバーグはユニバーサルと7年契約をすることとなりました。

すべての良いアイデアは悪いアイデアからスタートする。
だから良いアイデアが生まれるには長い時間がかかるんだ。

スピルバーグの名前が世界的に知られるようになったきっかけは、1971年『激突!』というテレビ映画でした。

1975年に公開された「ジョーズ」は世界歴代興行収入1位を記録する大ヒットとなり、
スピルバーグは一流映画監督の仲間入りを果たします。

初期は娯楽映画をメインに制作してたスピルバーグですが、
1980年代になると、様々なジャンルにも挑戦するようになります。

その中でも考古学教授であり、トレジャーハンターの主人公の大冒険を描いた『インディ・ジョーンズ』が大ヒットとなり、
映画のみならず、小説やテレビドラマも公開されるほどの人気シリーズとなっています。

その後、1982年に公開された『E.T.』では、2度目の世界歴代興行収入1位を。
1993年に公開された『ジュラシック・パーク』では、3度目の世界歴代興行収入1位を記録するなど、
数々の偉大な功績を残しています。

2018年には総興行収入が100億ドル(約1兆728億円)を超えた、世界初の映画監督となりました。

僕たちは皆、毎年毎年違う人間なんだ。
一生を通じて同じ人間なんてことはない。

1946年12月18日 オハイオ州シンシナティに生まれる
1965年 カリフォルニア州立大学ロングビーチ校にて映画を専攻
1969年 ユニバーサルと契約したことがきっかけとなり、カリフォルニア州立大学を中退
1971年 テレビ映画『激突!』で高い評価を得る
1974年 『続・激突! カージャック』で劇場映画初監督。カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞
1975年 『ジョーズ』でブレイク。世界歴代興行収入1位を記録
1977年 『未知との遭遇』公開
1981年 『インディ・ジョーンズ』公開
1982年 『E.T.』公開。2度目の世界歴代興行収入1位を記録。ゴールデングローブ賞を受賞
1985年 女優のエイミー・アーヴィングと結婚
1993年 『ジュラシック・パーク』が大ヒットとなり、3度目の世界歴代興行収入1位を記録
1993年 『シンドラーのリスト』でアカデミー賞受賞
1998年 『プライベート・ライアン』で2度目のアカデミー賞を受賞
2001年 英国王室(エリザベス2世)より、ナイト爵を授与
2006年 シカゴ国際映画祭夏季映画祭でヒューゴ賞金賞生涯功労賞を授与される
2013年 第66回カンヌ国際映画祭の審査委員長に就任
2015年 大統領自由勲章を受章
同年、『ジュラシックパーク』の続編である『ジュラシック・ワールド』公開
2018年 『ジュラシック・ワールド/炎の王国』公開
2020年 『ウエスト・サイド・ストーリー』公開

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