スティーヴィー・ワンダー
盲目であることが不利だなんて思ったことはない。
黒人であることを不利だなんて思ったことはない。
グラミー賞22部門の受賞歴をもつ男、スティーヴィー・ワンダー。
彼は盲目でありながら、その才能を幼少期から開花させていました。
世界中の人々を魅了する名曲を生み出し続ける
スティーヴィー・ワンダーは
どのようにしてスターになったのでしょうか?
その人生を振り返ってみましょう。
【多くの名曲で知られるスティーヴィー・ワンダー】
スティーヴィー・ワンダーは1950年。
ミシガン州で6人兄弟の3番目の子どもとして生まれます。
未熟児網膜症という病気が原因で
生まれつき目が不自由でした。
盲目という障害を抱えながらも、
幼いころからピアノやハーモニカなどを演奏し
音楽的才能を見せていたそうです。
11歳の時の時、スティーヴィーにとっての転機が訪れます。
それが、自身が作曲した「Lonely Boy」を
有名なミュージシャンであるロニー・ホワイトの前で歌ったことでした。
スティーヴィーの歌声に魅了されたロニーは、
彼に名門モータウンのオーディションを受けさせます。
見事オーディションを合格したスティーヴィー・ワンダーは、
わずか12歳でデビューを果たします。
その1年後には、
『Bill Board200』でリリースしたアルバムが1位を獲得。
史上最年少記録という快挙を成し遂げた
スティーヴィー・ワンダーは、
まさに神童の名を欲しいままにしていたのです。
変声期の影響による、
モータウンとの契約打ち切りの危機を乗り越えながら、
スティーヴィー・ワンダーは、
若くして数多くのヒット曲を生み出し続けました。
私たちの夢を“恐怖心”に邪魔させないのは素晴らしいこと。
【スティーヴィー・ワンダーの愛され続ける名曲たち】
神童と呼ばれ、
今もなお評価され続けるスティーヴィー・ワンダーですが、
23歳の頃に交通事故に巻き込まれてしまいます。
その結果、味覚と嗅覚を失う障害を負ってしまいました。
元々抱えていた盲目というハンデに加え、
味覚と嗅覚も失ってしまったのです。
(その後、リハビリにより味覚と嗅覚の一部は回復)
そんな中でも
スティーヴィー・ワンダーは数々の名曲を生み出し続け、
全米で数々の賞を受賞していきました。
事故のあった年に「サンシャイン」「ハイアーグラウンド」がヒットし、
翌年にも「悪夢」がヒット。
全米で1位を記録しました。
スティーヴィーの逆境に負けない強さが、
彼が名曲を生み出し続けた原動力になっているのかもしれませんね。
【まとめ】
・スティーヴィー・ワンダーは、生まれつき目に生涯を持っていた
・幼い頃から才能を開花させており、神童と呼ばれていた
・11歳の時にロニー・ワイトンに出会ったことにより、本格的に音楽の道に進む
・23歳の時に交通事故に遭い、味覚と嗅覚を一時的に失う
・様々な障害を乗り越え、グラミー賞22部門を受賞した
、
彼の人生の苦労とそれを明るく乗り越えようとする、
そんな彼の生き様が、
今もなお人々を魅了し続けているのです。
なあ、そろそろ現実に気づかないと
1950年5月13日 ミシガン州で誕生
1961年 モータウンのオーディションに合格する
1962年 全米ツアーに参加する
"1963年5月「Recorded Live: The 12 Year Old Genius」のアルバムが
Bill Board200で1位になる"
1970年 「タウラス・プロダクション」を設立
1972年 「迷信」が大ヒットする
"1973年 同乗していていた友人の車で事故にあい、一時期は後遺症で味覚と嗅覚を失う。
その後、リハビリにより回復。
「サンシャイン」「ハイアー・グラウンド」を発表"
1074年 「悪夢」を発表し、ヒットする
1975年 グラミー賞を受賞
"1984年 映画「ウーマン・イン・レッド」のサウンドトラックに「心の愛(I Just Called to Say I Love you)」 が起用。
アカデミー歌曲賞、ゴールデングローブ賞の二冠を受賞。"
1988年 日本の宮城県仙台市の中学校を訪れ、歌を披露した
1999年 ネディ・センター名誉賞を受賞した
2009年 国連大使に任命される
2021年 ウルフ賞芸術賞を受賞