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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ジョン・F・ケネディ
第35代アメリカ合衆国大統領。 選挙で選ばれた中では、歴代で最も若い大統領として知られる。
出生国:アメリカ
誕生日:1917年05月29日
命日:1963年11月22日

ジョン・F・ケネディ

学問を伴わぬ自由は危険であり、自由を伴わぬ学問は空虚である。

大国アメリカ歴代大統領の中でも
世界に広くその名を知られる第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ。

大統領としてのいくつもの功績と名言を残した
彼の人生に迫ると共に、
ジョン・F・ケネディの残した名言も紹介します。

 

【歴史に残る名言で知られるジョン・F・ケネディの人生】

43歳と言う若さでアメリカ大統領となったジョン・F・ケネディ。

約2年半という短い就任期間でいくつもの功績と名言を残した大統領です。

ニューフロンティア政策や
外交問題、アポロ計画などを優れた実行力で推し進め、
アメリカ社会をひっぱりました。

そんな偉大なジョン・F・ケネディは

マサチューセッツ州のアイルランド系移民のケネディ家に生まれます。

実業家で政治、経済にも影響力のある有力者の父を持ち、
エリート教育を受けていました。

しかしケネディは幼少の頃から病がちだったこと、
なんでもできる兄への劣等感から反抗的な態度をとるようになります。

学校では放校処分になりかけたこともあったそうです。

そんな学生生活を送っていた彼ですが、
ハーバード大学に進学すると優等の成績で卒業しました。

卒業後の1940年ケネディは徴兵の為軍隊へ行きます。
陸軍を希望していたのですが、健康状態を理由に不合格。

父の口利きで海軍の道に進みます。

パトロール魚雷艇の指揮官にまでなりましが、
元々悪かった腰をさらに傷めるなどの
健康不良を理由に1945年名誉除隊しました。

その後ジョン・F・ケネディが転身することとなる出来事が起こります。

それは兄の戦死でした。

兄の死後、大きな父の期待を受け政治家への道を進みます。

民主党の無名の下位議員としてスタートしたケネディは
政治家の道を登り詰め、
1958年現職の副大統領ニクソンと白熱した大統領選バトルを繰り広げました。

国民を惹きつけたケネディは無名ながら接戦を勝ち獲り、
第35代大統領に就任するのです。

優れたリーダシップとダンディな外見で
国民から愛されていたケネディですが、
演説前のパレード中に多くの市民が見ている前で何者かに射殺され
46歳の若さで命を落とします。

ケネディはまた社会に対する名言も数多く残しました。
続いて彼が残した名言を紹介していきます。

知識が増すほど、われわれの無知が明らかになる。

【ジョン・F・ケネディの名言たち】

演説の天才ジョン・F・ケネディが語り
人々を惹きつけた名言をご紹介しましょう。

「我々は暗闇を呪うためにここにいるのではなく
その暗闇の中で私たちを安全で元気な未来に導くことができるろうそくを
灯すためにここにいるのだ」

「もし自由社会が、貧しい多数の人々を助けることができなければ、
その暗闇の中で私たちを安全で元気な未来に導くことができるろうそくを
灯すためにここにいるのだ」

「私たちが一丸となり、力を合わせてことにあたれば何でも達成できるはず」

「自由が続き、自由が勝利を収めるためには、どんなことでもやり遂げます」

このような力強くわかりやすい言葉を
巧みな演説で話すジョン・F・ケネディにリーダー性を感じますね。

また彼の社会に対して問題定義や理想とする社会に対しても
国民にメッセージを残しています。

「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、
"あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい」

"

「もし自由社会が、貧しい多数の人々を助けることができなければ、
富める少数の人々も守ることができないだろう」

国は違えど私たちにも考えさせられるところがありますよね。

国民も政治家同様に国や社会について
深く考えることがよりよい国家を作る上で重要なことなのだと言っています。

「大きな失敗を恐れない者だけが、偉大なことを成し遂げる」
そう名言を語ったジョン・F・ケネディはまさに
アメリカ社会を動かしました。

彼の名言は今一度、社会について考えるきっかけをくれます。

偉大なことはできなくとも自分にはなにができるのか考えていきたいですね。

 

【まとめ】
・第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ
・カトリック初の大統領
・政治家としてのすぐれた資質とハンサムな外見で国民から人気を博した
・ピューリツァー賞を受賞した
・病がちで生涯病気に苦しんだ
・ケネディ暗殺事件で射殺され、46歳の若さで亡くなる

ジョン・F・ケネディは43歳という若さでカトリック初の大統領となり、
映画化されるほど国民から人気のあった優れた大統領でした。

行動にはつねに危険や代償が伴う。
しかしそれは、行動せずに楽を決めこんだ時の長期的な危険やコストと較べれば、取るに足らない。

1917年5月29日 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブルックラインで誕生
1927年 ニューヨーク郊外のブロンクス地区リバーデールに家族で引っ越す
    リバーデール・カントリー・スクールに通う
1929年 ニューヨーク市郊外のウエストチェスター郡ブロンクスビルに引っ越す
1930年 カトリックの寄宿学校カンタベリー・スクールに入学する
1931年 ホームシックによる体調不良で寄宿学校を1年で退学する
    チョート校に転校する
    反抗的な生徒として有名になり「モッカー」(校則違反者、人を馬鹿にする人)というあだ名がつく
    消化器の障害で体調を崩しステロイドを服用する
1935年 チョート校を卒業する
    ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学するも黄疸のためすぐに帰国する
    プリンストン大学に入学。白血病のため6週間で退学する
1936年 父ジョセフの力でハーバード大学に入学する
1940年 卒業論文で書いた『ミュンヘンの宥和』が大学教授から得る
   『英国は何故眠ったか』というタイトルをつけ出版する。イギリスとアメリカで8万部が売れる
1940年6月 優等の成績でハーバード大学を卒業する
1941年 海軍士官養成コースに入る
   9月25日 海軍士官に任官される
        病弱なケネディを気遣った父の計らいで戦場に赴くことがないワシントンD.C.の海軍情報局に配属される
1942年7月 海上勤務に転勤
1943年4月25日 ソロモン諸島のツラギ島に配属される。パトロール魚雷艇の艦長となる
1943年8月1日 乗っていた「魚雷艇PT109」が日本海軍の駆逐艦「天霧」から衝突され、船体が引き裂かれる
生存していた乗組員と共に海に飛び込み、後ケネディ名付けられた小さな島に着く
       遭難から6日後、救助される
1944年1月 部隊に復帰していたが、 健康不良を理由にアメリカへ帰国
    6月17日 『ニューヨーカー』誌で記者ジョン・ハーシーにケネディの英雄譚が掲載される
    8月 『リーダーズ・ダイジェスト』に英雄譚の要約が掲載され、ケネディの名前は全米に知れ渡る
       長男ジョセフ・ジュニアが戦争中、海軍パイロットとしての任務中事故で死去
1945年3月1日 名誉除隊する
   父の世話でハースト系のインターナショナル・ニュース・サービス社 の特派員となる
1946年 民主党の予備選挙に立候補する。その後に共和党候補との本選の中間選挙に立候補する
    母方の祖父である前ボストン市長と父の強力で本選で69,000票を超える記録的な得票を獲得する
    29歳の若さで下院議員となる
1947年9月 副腎の機能不全であるアジソン病の診断を受ける
      進行性副腎機能障害で寿命はあと10年か15年と告げる
1952年 上院議員となる
1953年 ジャクリーンと結婚
1954年 幼少時から悪かった背中の具合が悪化。松葉杖で歩くようになる
1955年 2年の間に背中の腫瘍や大腸炎、性感染症などで9回も入院する
1956年1月2日 政治家としての信念を綴った『勇気ある人々』 を出版。ピューリツァー賞を受賞
1957年 長女キャロライン・ケネディが誕生
1960年 長男ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが誕生
    接戦だったアメリカ合衆国大統領選挙で当選
1961年 第35代大統領に就任する
1963年 次男パトリック・ブービエ・ケネディが誕生。2日後に死去する
   イギリスと「部分的核実験禁止条約(PTBT)を結ぶ
   11月22日 ジャック・ルビーに射殺される「ケネディ大統領暗殺事件」が起き死去

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