シモーヌ・ド・ボーヴィワール
人は女に生まれるのではない、女になるのだ。
シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、
現代フランスのフェミニズム運動の基盤を作った哲学者です。
また「第二の性」などを出版した作家でもあり、
代表作「第二の性」はフェミニズム運動の原点といえる作品です。
女性の自由のために活動したボーヴォワールについてご紹介していきます。
【「第二の性」の作者ボーヴォワールとは?】
「第二の性」の作家のボーヴォワールは祖父は銀行家、
父は弁護士とパリのとても裕福な家庭に生まれます。
5歳からカトリック系の女学院に進学し、
パリ大学で哲学を学びました。
この時代に女性が大学まで進学することはとても珍しいことです。
ボーヴォワールは大学時代に出会ったサルトルと
現代でいうところの事実婚をします。
お互いを生涯の伴侶とする誓いをたてながらも婚姻に縛られない
自由な恋愛をする、子供は持たないといった
新しい男女関係は多くの若者を魅了しました。
卒業後、第一次、二次世界大戦の世の中を教師として生きる中で、
ボーヴォワールは作家としての活動を始めます。
そして1949年代表作となる「第二の性」を発表します。
この「第二の性」はフェニズムの原点と言われ、
今までタブー視されていたことに触れた内容は賛否両論の中
1週間で売上22,000部に達し、10か国以上で翻訳されました。
その後1970年に過熱した女性解放運動に加わり、
自身の人工中絶の体験をもとに合法化を求める運動に参加したり、
自身の創刊する雑誌『レ・タン・モデルヌ』、『フェミニズム問題』
を通して女性解放運動を牽引しました。
現代の女性が活躍できる社会の礎を築いてくれた彼女は、
男尊女卑の社会でまさに自分らしく知的にかっこよく生きた女性です。
どうにも乗り越えられない障害にぶつかった時は、頑固さほど役に立たないものはない。
【ボーヴォワールが「第二の性」に込めたメッセージ】
「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」
男性ではない二番目の性として女性が扱われてきた歴史を
歴史や自身の体験など様々な角度から考察し、
女性の解放を訴えた「第二の性」。
この中でボーヴォワールが伝えたかったメッセージとは
なんだと思いますか。
「第二の性」では「女である」とは、
「男である」とは、どういうことなのかという
疑問を投げかけています。
そして女性は成長過程で押し付けられた女性像であり、
本来、男性と女性の間には肉体的な違いしかなく
精神的・心理的な能力や特性は全く差はないのだと。
男性は女性を見下し、所有物のように扱うことで
自らの主体性を得ようとしていると論じています。
女性はこうした状況を認識することによって
自己決定権を取り戻し
自分自身の人生を歩まなければいけない
と言うメッセージをボーヴォワールは残しています。
なぜ女性の立場が低いのか、女性自身が疑問に思い
まず知ることが大切なのですね。
当時女性軽視の問題について触れることは
大きな批判を呼ぶことでした。
しかし博識なボーヴォワールが「第二の性」を通して
世間に女性の権利を主張したことで
多くの女性の希望となり、女性解放運動が進みました。
【まとめ】
・フェミニズムの先駆者であり、哲学者
・フランスの代表的女流作家でもあり、代表作は『第二の性』や『レ・マンダラン』
・夫サルトルと婚姻にしばられない恋愛自由な生涯の伴侶として人生を共にする
・1970年の女性解放運動で活躍する
今女性の立場が向上し社会で活躍できるのは
シモーヌ・ド・ボーヴィワールらの女性解放運動の
おかげと言えます。
あなたの人生を今日から変えなさい。未来に賭けてはいけません。
今すぐに行動を起こすのです。
1908年1月9日 フランスのパリ6区モンパルナス大通り103番地 で誕生
1909年 母方の祖父の銀行ギュスターヴ・ブラスールが破産
1913年 カトリック系の私塾アドリーヌ・デジール学院に入学
1917年 父ジョルジュが弁護士を辞め新事業に手を出すも失敗
1922年 それまで敬虔なカトリック教徒だったが、神父の世俗的な発言をきっかけに信仰を失う
1925年 バカロレア取得し。ヌイイ=シュル=セーヌのサント=マリー学院に入学
次いでパリ・カトリック学院に入学
1928年 ソルボンヌ大学入学
1929年 最年少で哲学のアグレガシオン(一級教員資格)試験に合格
親友ザザがウイルス性脳炎で死去
大学時代に出会ったサルトルと婚姻を結ばない恋愛自由の生涯のパートナーになる
1930年 夫サルトルが兵役につく
1931年 マルセイユのモングラン高等学校の教員になる
夫サルトルはル・アーヴルで教職に就く
1932年 ルーアンのジャンヌダルク高等学校の教員になる
1393年 結核の妹と一緒に第二次世界大戦終戦までポーランドに留まる
夫サルトルは招集され戦地へ
1941年3月 サルトルが病気のため捕虜収容所からパリに戻る
6月 復員手続のためボーヴォワールも共に自由地域へ向かう
12月18日 教え子の母ソロキーヌ夫人が「未成年者をそそのかして不品行を行わせた」として告訴される
1943年6月17日 文部省がボーヴォワールの懲戒免職を決定する
8月 ピエール・ボストと共に国立ラジオ放送で仕事を始める
1945年 文部省による教員資格を回復、フェヌロン高等学校に着任
1949年5月 『レ・タン・モデルヌ』に「性の入門」,「同性愛の女」,「母親」を発表
1948年5月 『レ・タン・モデルヌ』に「女と神話」を発表
1952年 作家・映画監督のクロード・ランズマンと暮らし始める(1959年まで)
1954年10月 『レ・マンダラン』を出版し、ゴンクール賞を受賞する
1958年 自伝小説『娘時代』出版
1960年 ジャミラ・ブーパシャのための委員会を結成
1971年4月 人工妊娠中絶の合法化を求め、自らの中絶経験を公にした「343人のマニフェスト」に署名
6月 ジゼル・アリミと共に中絶の合法化を求める団体「女性のために選択する」 を設立
11月20日 女性解放運動の最初の「避妊と中絶の自由化・無償化」のデモに参加。以後も女性解放運動家らと行動を共にする
1972年2月 フランス女性解放運動に参加
1974年1月2日 ボーヴォワールが代表を務める女性権利同盟が結成される
1975年 エルサレム賞受賞
1977年 アンヌ・トリスタンと『女性解放運動史』の序文を執筆
1978年 女性解放運動家と共同で雑誌『フェミニズム問題』を創刊
オーストリア国家賞受賞
1980年4月15日 夫サルトル死去
1981年2月 フェミニスト闘争運動代表のシルヴィ・ル・ボンを養女にする
1986年4月14日 コシャン病院で死去