カーネル・サンダース
世間では、正式に学校に通った者たちだけが、"教育された人間" だと思われているようですが、決してそうではないと思います。
相当な成功を収めた人たちの中にも、中学校さえ出ていない人たちがたくさんいることを私自身知っているからです。
「成功するのに年齢は関係ない」
この言葉を体現したのが「ケンタッキーフライドチキン」の創業者であるカーネル・サンダースです。
日本ではクリスマスシーズンの定番として知られるオリジナルチキンは、70年以上がたった今でも看板メニューとして愛されています。
そんなカーネルですが、彼が成功を手にしたのはかなり遅い時期だったと言われています。
様々なビジネスに挑戦したものの、その成果はかんばしくなく、長い年月を苦難の中で過ごしました。
しかしそれでもあきらめずにビジネスを続けた結果、最後には大きな成功を手に入れたのです。
では、彼はどのように成功への道を進んでいったのでしょうか?
カーネルが6歳の時に父が亡くなり、母は工場で働きながら息子たちを育てました。
そのため、カーネル自身も10歳の時から働きはじめ、鉄道の機関車修理工、機関助手、保線区員、ボイラー係など、40以上の仕事を転々としたと言われています。
現在のケンタッキーフライドチキンの前身となる店が誕生したのは、1930年6月のこと。
当時ガソリンスタンドに訪れていた客の言葉により、カーネルはガソリンスタンドの一角に「サンダース・カフェ」をオープン。
走るのを止めた人間は、そこから一気に坂を転げ落ちるものだ
始まりはたった6席の小さなスペースですが、主要道路沿いにあったこともあり、店は大繁盛。
最終的にはモーテルを併設した142席ものレストランに成長しました。
このカフェの目玉商品だったのが、あの「オリジナルチキン」です。
経営は非常にうまくいっていたのですが、新しい高速道路が完成すると事態は一変。
国道沿いにあったカーネルの店にはお客さんが入らなくなり、売り上げは激減します。
経営難におちいったカーネルは、泣く泣く店を手放すことに決めたのですが、売り上げ減の影響で負債を返す余裕がありませんでした。
そこで、カーネルはあるアイデアを思いつきます。
それが「カフェの一番人気だったオリジナルチキンのレシピを、他のレストランに売る」というものでした。
これこそが、現代多くの会社が採用している「フランチャイズ」の始まりとなりました。
レシピを教え、売り上げの一部を受け取るフランチャイズビジネスは大ヒット。
1964年までに600店舗を超えるフランチャイズ網を築きあげたのです。
この時点で、カーネルは70歳を過ぎていました。
引退後、カーネルは慈善活動を熱心に行い、後世に名を残す人物として語り継がれているのです。
私がやったことなど、誰にもできる事だ。ポイントはただ一つ。
心から『やろう』と思ったかどうかである。
心が思わないことは、絶対に実現できない
1890年9月9日 インディアナ州クラーク郡のヘンリービルで誕生
1895年 カーネルの父が死去
1906年 16歳で年齢を詐称して陸軍に入隊
1930年 ケンタッキー州・コービンに移住。
ガソリンスタンドの経営を開始
1930年6月 ガソリンスタンドの一角で「サンダース・カフェ」の経営を開始
1934年 この頃からオリジナルチキンの販売を開始
1935年 「州の料理への貢献」により、ルビー・ラフーン知事から
「ケンタッキー・カーネル」の名誉称号を授与される
1937年 「サンダース・カフェ」が142席のレストランに成長
1940年 国道の反対側のモーテルを購入し「サンダース・コート・アンド・カフェ」として改装
1939年 圧力鍋の普及により、より早いチキンの調理が可能になる
1940年7月 現在のオリジナルチキンのレシピが完成
1941年 コービンに147席のレストランを開業
1952年 フランチャイズのビジネスモデルを開始
1955年 州間高速道路が開通したことにより、客数が激減。店舗を手放すこととなる
1960年 フランチャイズ店舗が米国とカナダで400店舗を達成
1964年 フランチャイズ店舗が600店舗を超える
KFCの権利をジョン・Y・ブラウン・ジュニアに売却
1970年 ケンタッキーフライドチキンが日本に進出
1980年6月 急性白血病により肺炎を併発
12月16日 90歳で死去する