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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ウィルバー・ライト
動力飛行機の発明者であり、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれた。
出生国:アメリカ
誕生日:1867年4月16日
命日:1912年5月30日

ウィルバー・ライト

10人のやる気を起こせれば、ひとりよりも大きなことが成しとげられる。

人類初の有人飛行に成功した「ライト兄弟」の兄、ウィルバー・ライトは、
1867年4月16日にアメリカインディアナ州にある小さな村、ミルビルで生まれました。

飛行機の開発者として知られるライト兄弟ですが、そのきっかけとなったのがリリエンタールの事故死でした。

ライト兄弟が活躍した19世紀末は蒸気機関車や車、蒸気船がすでに登場しており、
陸路や水路での移動はめざましい進歩をとげていました。

しかし空の分野はまだまだ未熟であり、
熱気球から派生した飛行船はあったものの、
「空気より重い飛行機を飛ばす技術」は発展途上だったのです。

リリエンタールもまた、グライダーをもとに飛行実験をおこなっていましたが、実験中に墜落。
命を落としてしまうことになります。

兄弟は動力飛行成功へ向けて、度重なる実験と試行錯誤を行い、
1903年12月17日にノースカロライナ州キティホークにて、
ライトフライヤー号による有人飛行を成功させました。

人類初の偉業を成し遂げたライト兄弟でしたが、
ここからさらなる困難が待ち受けていたのです。

私達は苦難によって多くを学び、そして逆境によって私達の心はよりよくされる。

当時、兄弟の業績は評価されるどころか、
世間からの反発を買ってしまいました。

これまで多くの研究者がことごとく失敗したのに関わらず、
ただの民間人であった彼らが成功したことにより、
周囲の妬みや敵意を向けられることとなります。

米国の国立学術文化研究機関である「スミソニアン協会」会長であるチャールズ・ウォルコットは、
兄弟の偉業を決して認めず、なかったものとして扱いました。

有人飛行機を最初に成功させたのは違う人物だと、
世間に思い込ませようとする動きもあり、
実際にその情報を信じてしまう人も出てきました。

世間からの誤った評価に苦しむ中、ウィルバーは失意と法廷闘争の疲れから、
 1912年5月30日に腸チフスで死去してしまいます。

しかし、ウィルバーの死後、兄弟の業績が正しく評価されるきっかけが訪れます。

日の目を見ることなく倉庫に保管されていたライトフライヤー号を、
ロンドンの科学博物館が展示したいと申し出てきたのです。

弟のオーヴィルはその申し出を受け入れ、1928年ライトフライヤー号はイギリスに渡ります。

その後、イギリスに旅行に来ていたアメリカ人が、
展示されているライト・フライヤー号に気づき「なぜこんなところにあるのか」と驚き、やがて大きな問題へと発展しました。

この出来事により、さすがに無視ができなくなったスミソニアン協会は、
1942年にとうとうライト兄弟の偉業を認める声明を出しました。

こうして、ウィルバーの死後30年後に、兄弟の偉業は世界中に正しく知られることとなったのです。

いま正しい事も、数年後間違っていることもある。
逆にいま間違っていることも、数年後正しいこともある。

1867年4月16日 インディアナ州東部の小さな村ミルビルで生まれる
1888年 母スーザンが結核により死去
1903年12月17日 ライトフライヤー号によって有人動力飛行に成功
1908年 世界最初の飛行大会が開催。ライト兄弟も参加
1909年 弟オーヴィルとともにライト社を設立
1910年 ライトB型を完成させる
1912年  ウィルバー・ライト、腸チフスでデイトンの自宅で死去
1928年 ロンドンの科学博物館からの申し出により、ライトフライヤー号がイギリスに渡る
1928年 スミソニアン協会の会長チャールズ・アボットが弟のオーヴィルと面談
     ライトフライヤー号をアメリカに戻すように要請
1942年 スミソニアン協会はライト兄弟の偉業を認める声明を発表
1948年12月17日 ライトフライヤー号がアメリカに戻り、ワシントン国立博物館に展示される
1999年 LIFE誌により「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選出される

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