一人一人が持っている才能を正しく理解し、
最高のパフォーマンスを発揮する社会を作る

一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

アントニオ猪木
元プロレスラー。新日本プロレスの創業者。 現在は実業家・政治家をしており、スポーツ平和党代表などをつとめている。
出生国:日本
誕生日:1943年02月20日

アントニオ猪木

もともとありもしない「限界」にこだわると、己れの力に疑問をもつようになり
しくじったり、できなかったとき、「ああ、これが俺の限界だ、もうダメだ」とギブアップしてしまう。

「元気が一番、元気があれば何でもできる!」や「この道を行けばどうなるものか」などの
名言で知られる、アントニオ猪木。

伝説的なプロレスラーであり、現在は実業家・政治家として活躍する
アントニオ猪木の人生と、彼が語った名言をご紹介します。

【名言でも知られるアントニオ猪木の人生】

日本人初のWWE殿堂入りをするなど、プロレスラーとして活躍し、
引退後は実業家、政治家となったアントニオ猪木は
1943年2月20日に神奈川県で誕生します。

幼いころに父を亡くし、貧困に悩んでいた彼の家族は、
一攫千金を夢見てフィリピンに移住。

農場で過酷な労働をしていたアントニオ猪木は、
ブラジル遠征中だったプロレスラー力道山にスカウトされます。
ここから、アントニオ猪木のプロレス人生が始まったのです。

1960年9月30日には、
本名の猪木寛至でプロレスラーとしてデビュー。

同日にデビューしたライバルのジャイアント馬場とともに
プロレス業界を盛り上げる活躍を魅せます。

1972年1月26日には「新日本プロレス」を旗揚げし、
恩師である力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いたのです。

1998年4月4日に引退するまでアントニオ猪木の活躍は続き、
引退時には「ファイナルイノキトーナメント」を東京ドームで開催しました。

引退の際に語った「この道を行けばどうなるものか」は
彼の波乱万丈な人生そのものを表している名言と言えるでしょう。

引退後は、史上初のレスラー出身の国会議員に就任し、

参議院議員としてイラク在留邦人人質解放や朝鮮半島問題に
関わるなど様々な活動に取り組みました。

2019年に政界を引退したアントニオ猪木は
難病に指定されている「心アミロイドーシス」に罹り、
現在は闘病生活を送っています。

早く病状が回復し、また元気な姿を見せて欲しいですね。

一生懸命やっている人を小馬鹿にするのは、自分がかなわないから笑うことで逃げているのだ。

【アントニオ猪木の名言「道」の意味とは?】

1998年4月4日に東京ドームで行った引退記念イベントで
披露した詩「道」

アントニオ猪木といえば
「元気ですか!」が有名ですが、ファンの間では
「道」が隠れた名言として知られているのです。

まずはその全文をご覧ください。

「この道を行けばどうなるものか 
危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 
踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 
"迷わず行けよ 行けばわかるさ」 

"

この詩は、アントニオ猪木の人生そのものを表していると言われています。

貧困の中で、力道山との出会いで人生が変わり、
「新日本プロレス」の旗揚げ。
そして、プロレスの黄金の礎となった彼の人生には
さまざまな困難がありました。

それでもアントニオ猪木は一歩踏み出すことを恐れず
常に挑戦し続けたのです。

どうなるのか分からない不安を乗り越え
一歩先へ進むことで道は繋がっていく。

その勇気を出し、
そして迷わず進んでいくことで人は成長し、
自分の人生の道がわかってくる。

そんな大切なことを、この名言は教えてくれます。
シンプルな言葉ですが、
アントニオ猪木が言うととても重みがありますよね。

【まとめ】
・アントニオ猪木は元プロレスラーであり実業家・政治家としても活躍した
・伝説のプロレスラーと言われる
・自身が設立した新日本プロレスでプロレス黄金時代を築く
・現在は難病の心アミロイドーシスを患い闘病中

「元気があれば何でもできる!」という名言通り、
波乱万丈な人生の中でも、アントニオ猪木は輝かしい功績を築いて行ったのです。

元気が一番、元気があれば何でもできる!

1943年2月20日 神奈川県で誕生
1948年 5歳の時に父が死去
1955年  横浜市立寺尾中学校に入学
1956年 貧困を抜け出す希望から母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ移住
    サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす
1960年4月11日 興行でサンパウロを訪れていた力道山に直接スカウトされて日本へ帰国。日本プロレスに入団
1960年9月30日 東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビューする
1962年11月9日 リングネームを本名からアントニオ猪木に改名
1963年12月15日 付き人となり仕えていた力道山が死去
1964年 アメリカ武者修行にでる
1966年3月 帰国。
      日本プロレスから離脱
   4月23日 豊登とともに自身をエースとする東京プロレスの設立することを発表
   3ヶ月で破産し、日本プロレスに戻る
1971年 日本プロレスから追放処分を受ける
   11月 女優の倍賞美津子と結婚
1972年1月26日 新日本プロレスを設立。プロレス黄金時代を築いた
1982年2月27日 沖縄松林流空手東海支部長水谷征夫と
        フルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立
   漫画原作者の梶原一騎により猪木が監禁される事件が起きる
1983年 世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる
1986年6月 プロボクシング団体日本IBFと業務提携開始する
1987年 不倫騒動で倍賞美津子と離婚
1989年 スポーツ平和党を結成。史上初のレスラー出身の国会議員となる
1991年 イスラム教に改宗する
1995年 参議院議員選挙を落選する
1998年 4月4日東京ドームで引退記念イベントを行い引退
    引退後、多くの団体やイベントに盛り上げ役として登場
2002年8月28日 「Dynamite!」でスカイダイビングに挑戦し成功
2003年12月31日 日本テレビ協賛で「イノキボンバイエ」を開催し失敗
        格闘技プロデュースから退く
2005年11月14日 自身の持つ新日本プロレスの株式を株式会社ユークスに売却し、
         事実上新日本プロレスの経営から身を引く
2007年7月11日 “TRIPLE-P vs. アントニオ猪木”を組み、名言「道」を曲にして発売
         政治団体解散届を総務大臣に提出する
2010年2月1日 日本人初のWWE殿堂入りを果たす
2010年12月 「INOKI BOM-BA-YE」を復活させる
2012年7月10日 中国・上海で新団体「上海愛武」を設立
   11月20日 キューバ友好勲章を授与される
2013年 第23回参議院議員通常選挙で日本維新の会から比例代表で出馬し当選。政界に復帰する
2015年 日本維新の会を離党。日本を元気にする会の結党に参画する
2016年 「日本を元気にする会・無所属会」が解散。「無所属クラブ」に異動する
2017年5月25日 自身がプロデュースする新イベント「ISM」の旗揚げを発表
2017年10月21日 両国国技館での『INOKI ISM.2』で自身の生前葬を行う
2020年7月26日 難病の「心アミロイドーシス」という病を患っていることを公表
        闘病生活を送る

アクシスプロファイル簡易診断で、
あなたのスピリットプロファイルを明らかにしてみましょう。
無料で受講