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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

高橋是清
第20代内閣総理大臣。 昭和恐慌から日本経済を回復させるなど、財政家としての評価が高い人物。
出生国:日本
誕生日:1854年09月19日
命日:1936年02月26日

高橋是清

順境は、いつまでも続くものではない。
だがな、逆境というのもまた心の持ちようひとつで、これを転じて、いくらでも順境にすることができる。

明治から昭和にかけての財政家として
日本を支えた高橋是清。

「ダルマさん」の愛称で呼ばれ、総理大臣も務めた彼は
大蔵大臣としてすごい功績を残しました。

高橋是清がすごい人物だった言われる理由を
彼の生涯と功績から紐解いていきます。

 

【すごい功績を残した高橋是清とは?】

明治から昭和の時代に
日本の財政家、日銀総裁、政治家として活躍した高橋是清。

"すごい政治家だった言われるその人生をみていきましょう。

"

<日銀副総裁として、高橋是清は日露戦争時の資金調達に成功>

高橋是清は38歳の時に入社した日本銀行で、
財界人としての才能を開花させます。

日露戦争のとき、日銀副総裁として戦争のための資金調達のため、
高橋是清は同盟国のイギリスに向います。

しかし、この調達には心配な点がありました。

この時すでに、日本の敗戦が濃厚と見られており、
日本政府が返済できない恐れがあること。
また、資金を貸すことで、イギリスが中立違反として責められるのではないか、と考えられたのです。

しかし是清はこの心配をくつがえし、うまく交渉を行うことで、公債発行を成功させたのです。

<6度も大蔵大臣に就任した>

高橋是清は、総理大臣にその高い能力を評価され、6度も大蔵大臣に就任しました。
その任期中、彼は大きな功績をいくつも残しています。

是清の活躍として知られているのが、「昭和金融恐慌」の解決です。

"当時、恐慌に危機感を抱いた国民は、銀行から大量の預金を引き出していました。
それにより、各銀行が持つ紙幣が不足してしまい、全国的に現金が足りなくなるという事態が起きてしまったのです。"

その現状を解消するため、是清は日銀総裁と協力し、ある奇策を講じます。

片面が白紙の200円札を大量に印刷させ、それを銀行の店頭に積んで行ったのです。
「現金はまだある」と見える形でアピールすることで
恐慌に怯える国民を落ち着かせました。

結果として、金融恐慌は鎮静化されたと言われています。

このエピソードは、教科書にも乗るほどに有名なお話しですよね。

ここから分かる通り、高橋是清は大蔵大臣としての評価がとても高く
近代日本を代表する財政家と言われているのです。

国にとっても経済や金融にとっても欠くべからざるは信頼である。

【本当にすごい高橋是清の人生】

"財政家として功績を残した高橋是清は

"
幕末の1854年9月19日、江戸芝中門前町で誕生しました。

生後間もなく、仙台藩の足軽高橋覚治の養子となり、
14歳の時にアメリカへ留学。

しかし、そこで騙されてしまい、1年間奴隷として働くというすごい体験談を持っています。

帰国後は、英語教師をしながら文部省に入省。

1884年には、農商務省の外局として設置された
特許局の初代局長に就任しました。

しかし順調な活躍を見せる彼は官僚としてのキャリアを捨て、
ペルーへ旅立ち銀鉱事業を始めます。

しかし、その事業は失敗に終わり、
帰国後はホームレスとなってしまいます。

そこで川田小一郎が声をかけられ、是清は日本銀行で働くことに。
このことがきっかけで、ホームレスから一転
高橋是清は財界人、政界人としてその名が世に知れ渡るようになったのです。

大蔵大臣として多くの功績を残した高橋是清ですが、
その活動を面白く思わない存在もいました。

それが、軍事予算の抑制への不満を感じていた青年将校たちです。

1936年2月26日
軍部の恨みを買ってしまった高橋是清は、
かの有名な「二・二六事件」で反乱軍の青年将校らに暗殺されてしまったのです。

波瀾万丈の人生を歩み、
最期まで日本のために力をつくした高橋是清は、83歳でこの世を去ります。

これほど人々から信頼されたすごい大蔵大臣はいないというほど、
国民からの信頼を得ていた日本のリーダーでした。

【まとめ】
・高橋是清は近代日本を代表する財政家
・大蔵大臣を6度務め優れた政治手腕を発揮した
・立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣に就任していた
・愛称「だるまさん」と言われ、国民からの信頼が厚い政治家だった

財界から日本を支えた高橋是清は、
日本史上最強の財政家として、後世に語り継がれているのです。

私は繰り返して言う。
人間出世の目標は、精神的であって、物質的でないと。

1854年9月19日 江戸芝中門前町で誕生
1867年 藩命により、勝海舟の息子の小鹿と海外へ留学する
 ホームステイ先で騙されて年季奉公の契約をし、オークランドのブラウン家に売られる
 牧童や葡萄園で奴隷として扱われる中、英語の会話と読み書き能力を習得
1868年 帰国する
1869年 大学南校に入学する
1871年 唐津藩の英語学校耐恒寮の教員となる
1872年 教員を辞めて上京する。開成学校に入学する
1873年 文部省に入省する
    その傍らで共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長を務める
1884年 農商務省、特許局の初代局長に就任する。日本の特許制度を整える
1889年 官僚としてのキャリアを中断しペルーに赴く。銀鉱事業を行うが失敗する
1892年 帰国する
    ホームレスとなるが、川田小一郎に声をかけられ日本銀行に入行する
1904 年 1905年まで続いた日露戦争中に
     日銀副総裁として同盟国イギリスに向かい戦費調達のために戦時外債の公募をする
1905年 貴族院議員に勅選
1911年 日銀総裁に就任する
1913年 第1次山本内閣の大蔵大臣に就任する。立憲政友会に入党する
1921年 第20代内閣総理大臣に就任する。立憲政友会の第4代総裁となる
1922年6月 高橋内閣総辞職
1924年3月 貴族院議員を辞職。爵位を長男の是賢に譲り隠居する。
   5月 岩手県盛岡市の原敬の旧選挙区から衆議院議員選挙に立候補し当選する
   6月 加藤高明内閣の農商務大臣に就任する
1927年 昭和金融恐慌が発生したのを受け自身3度目の蔵相に就任する
    金融恐慌を沈静化させる
1931年 4度目の蔵相に就任する
    世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させる
1932年 犬養総理暗殺により兼任で臨時の総理大臣を10日間務める
1934年11月 6度目の蔵相に就任する
1936年2月26日 二・二六事件で暗殺される

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