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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

長嶋茂雄
元プロ野球選手 (内野手)・プロ野球監督。 読売ジャイアンツ終身名誉監督。日本プロ野球名球会顧問。 2013年に国民栄誉賞を受賞した。
出生国:日本
誕生日:1936年02月20日

長嶋茂雄

プロなら陰の苦労や苦悩を人前でみせるべきでない。

「ミスタープロ野球」と呼ばれ
数々の伝説を持つ長嶋茂雄。

プロ野球選手から国民的スターとなった
長島茂雄とは一体どんな人物なのかご紹介していきます。

また彼の作った数々の伝説の中からいくつかのエピソードを
お伝えします。

 

【野球界の伝説として知られる長嶋茂雄とは?】

ミスタージャイアンツ長嶋茂雄は
誰もが知るプロ野球界の伝説の人ですよね。
絶大な人気がる長嶋茂雄の魅力とは一体なんなのでしょうか。

・すべてを持っている野球人
立教大学で伝説を築き、
史上最高の契約金で巨人に華々しく入団した長嶋茂雄。

ほかのスター選手に比べ、秀でた項目はないものの
走攻守すべてに長けた内野手として活躍します。

王貞治ともに中軸を担い、
ON砲と呼ばれ何度もチームを勝利へ道びきました。

彼の魅力はそれだけではありません。

ダイナミックなバッティングと 華麗な守備、
クラッチヒッターとしてチームを何度も勝利へ導く勝負強さで
ファンを魅了しました。

・チャーミングな人間性
長嶋茂雄は引退後も巨人軍の監督を3度も務め、
さらにはバラエティー番組も多数出演します。

現役時代からも垣間見えていた底なしの明るさと
チャーミングなキャクターで人気を博しました。

彼の独特の言動はいくつも伝説として語られています。

実力と人気を兼ね備えた長嶋茂雄は、
現役のプロ野球選手時代も監督時代も
彼ひとりで球場をいっぱいにする人気を誇ったのです。

そして2013年、そんな彼の功績を称え国民栄誉賞が贈られました。

現在は脳梗塞、胆石を乗り越え、
2021年7月23日の東京オリンピック開会式の聖火リレーに
参加するなど公の場で活躍しています。

努力してますと練習を売り物にする選手は、プロフェッショナルといえない。

【語り尽くせない、長嶋茂雄の伝説たち】

伝説の名言、「我が巨人軍は永久に不滅です」
とても有名な長嶋茂雄の名言ですよね。

これは長年4番としてチームを勝利に導いた
彼の引退の時の言葉です。

そして自身の強い希望で球場のファンに直接挨拶をするため、
グラウンドを一周し、日本中を感動の渦に包みました。

こんな伝説的な名言を残す一方で、
チャーミングな独特の発言も多いのが長嶋茂雄です。

・「なぜ自分はバースデーホームランを打てないのだろう」
長嶋茂雄の誕生日は2月20日です。
シーズオフの時期なので試合がないのですが、
真剣に悩んでいた時期があったそうです。

・新人の年から30本塁打達成という偉業にあと1本届かずにいた長嶋茂雄。

そのシーズンは30本目のホームランをついに打ちます。

しかし1塁を踏み忘れてアウトに。

ちゃんとベースを踏んでいれば偉業達成でした。

・「松井くんにはもっとオーロラを出してほしい」と松井秀喜に言ったそうです。

・好きな四字熟語を書いてとリクエストされて渡された色紙に「長嶋茂雄」と書きました。

・記者から還暦のお祝いをされ、
「初めての還暦を迎えまして……」と話したそうです。

まだまだ長嶋茂雄の伝説エピソードや名言はありますが、
こういった彼のお茶目な人柄が
国民的人気を誇る理由だという事がよくわかりますよね。

 

【まとめ】
・長嶋茂雄はミスタープロ野球と言われた元プロ野球選手
・3度巨人軍の監督を務める
・巨人終身名誉監督
・日本プロ野球名球会顧問
・2013年、国民栄誉賞を受賞

長嶋茂雄は野球の実力と人を楽しませる才能を兼ね備えた
日本野球界の伝説の人です。

挫折してもプライドは失わない、それは努力しているからだ。

1936年2月20日 千葉県印旛郡臼井町で誕生
1945年 兄の影響で野球を始める
1948年 兄が所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団
    ショートとして育てられる
1949年 臼井二町組合立中学校に入学
1951年4月 地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校に入学
1952年 野球部に入り、4番打者を担う
1953年8月1日 高校公式試合で自身唯一のホームランを打つ
        飛距離350フィートの特大ホームランは野球関係者からの注目を集める
   読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーを父親に無断で断られる
   11月下旬 立教大学野球部推薦入学のセレクションで推薦順位2位で合格
1954年 立教大学経済学部に入学
   6月 父が急逝する
1955年 第2回アジア野球選手権大会日本代表に選ばれる
1956年 春季リーグ戦で首位打者となる
1957年 秋季リーグ戦で首位打者となる
     六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を記録
    11月20日 巨人への入団を決め、契約する
         背番号は千葉茂のつけていた「3」に決まる
1958年4月5日 対国鉄スワローズ戦に3番サードで先発出場しデビューする
   4月7日 対国鉄戦で初ヒットを記録
   4月10日 対大洋ホエールズ戦で初ホームランを記録
   9月20日 28号ホームランを打ち、新人本塁打プロ野球新記録を達成する
   本塁打王と打点王の二冠を獲得し、1年目を終える
1959年​ 自身初の首位打者を獲得
1960年 首位打者を獲得。4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録
1961年 3年連続首位打者を獲得。初のセ・リーグMVPを獲得。本塁打王獲得
1962年 長嶋と王貞治が巨人の中軸打者、ON砲と呼ばれ活躍し始める
1963年 2年ぶりのリーグ優勝、日本一に大きく貢献する
    首位打者と打点王を獲得
    2度目のセ・リーグMVPを受賞
1967年​ 入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど不調のシーズンを過ごす
1968年 打点王となる。4度目のセ・リーグMVPを受賞
1969年​ 球界最高の年俸4,560万円で契約更改する
1970年 3年連続の打点王となる
1971年1月20日 巨人軍13代目のキャプテンに就任
   5月25日 史上5人目となる通算2,000本安打を達成
   5度目のセ・リーグMVPを受賞
1972年 選手兼任コーチとなる
1973年10月11日 後楽園球場での阪神戦にて右手薬指を骨折。残り試合を欠場
        監督に現役引退を進められるも、強い希望で現役続行する
1974年10月14日 ファンの前で引退を伝える。引退セレモニーが行われる
1975年 1度目の巨人監督に就任
    シーズンが球団創設以来初の最下位で終わる
1976年 リーグ優勝を果たす
1980年 シーズン終了前に読売新聞社社長の務臺光雄から監督を解任される
1981年 スポーツ外交官となり各国で公演を行う
    バラエティ番組にも出演するようになる。独特のキャラクターが受け「面白いオジサン」のイメージが定着
1982年1月 報知新聞社の客員評論家に就任
1988年 息子一茂がヤクルトに入団
1989年 ヤクルトから監督のオファーが来るが家族の反対もあり辞退
1990年 オリックス・ブレーブスから監督のオファーが来るが辞退
1992年 報知新聞社客員を辞任
1993年 第13代巨人監督として復帰。新背番号「33」
1994年 リーグ優勝達成。日本シリーズに勝利し監督として初めて日本一となる
    正力松太郎賞を受賞
1996年 リーグ優勝を果たす。2年越しの「メークドラマ」を完成させる
2000年 背番号を「3」に変更
    日本一を達成する
   9月28日 監督退任と専務取締役終身名誉監督への就任が発表される
2002年2月20日 宮崎市名誉市民となる
   3月 佐倉市名誉市民顕彰を授賞
   7月 立教学院栄誉賞(第1号)を受賞
   12月2日 アテネオリンピック出場を目標とする野球日本代表チームの監督に就任
2003年11月 アジア選手権で優勝。オリンピック出場
2004年3月4日 脳梗塞で倒れ右半身に麻痺が残り、言語能力にも影響がでた
   アテネオリンピックでは代わりにヘッド兼打撃コーチの中畑清がチームの指揮を執った
2005年11月3日 平成17年度文化功労者(スポーツ振興)となる
2006年 リハビリの成果もあり少しずつ公の活動を拡大する
   「長嶋茂雄ドリームプロジェクト」の特別ゲストとして子供たちに野球を教える
2012年11月 キューバから友好勲章を授与される
2013年4月16日 国民栄誉賞を松井秀喜と同時受賞する
   5月31日 千葉県県民栄誉賞を受賞
   7月12日 佐倉市民栄誉賞を受賞。会場の佐倉市岩名運動公園第一野球場が長嶋茂雄記念岩名球場に改称される
2014年10月 東京都名誉都民の授与
   12月 日本プロ野球名球会の理事を退任し顧問に就任
2018年7月初旬 胆石がみつかり療養する
2021年7月23日 東京オリンピック開会式の国立競技場での聖火リレーに王貞治、松井秀喜とともに参加

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