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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

美空ひばり
『川の流れのように』で有名な「歌謡界の女王」とも呼ばれた日本の歌手
出生国:日本
誕生日:1937年5月29日
命日:1989年6月24日

美空ひばり

身を屈して、分を守り、天の時を待つ

美空ひばりといえば、代表作の「川の流れのように」で
その名前を知っている方もいるのではないでしょうか?

戦後を代表する歌手であり「歌謡界の女王」の異名を持つ美空ひばり(本名加藤 和枝)は、
子供の頃から稀有な才能を発揮していました。

きっかけは、父、増吉が出征する時に開かれた壮行会でした。

美空は壮行会で『九段の母』を歌い、
その歌声を聞いた母、喜美枝は、美空の歌声には人々を惹きつける魅力があると確信。

そして、美空と共に横浜近郊にて歌による慰問活動を始めました。

終戦後に「青空楽団」で初舞台を踏んだ後、前座歌手として地方巡業を行っていた美空は、
神戸へ巡業に行った際、のちに美空が所属する事務所を立ち上げる人物である田岡一雄と出会います。

その3ヶ月後には、当時人気絶頂にあった俳優である川田晴久に大抜擢され、横浜国際劇場公演に出演。

川田は美空にとって、生涯の師とも呼べる存在になっていきます。

持ち前の歌唱力と人々との縁に恵まれた美空は、スターとしての道を順調に歩いていきました。

あせらず、おこらず、あきらめず

美空はもともと、子供の身でありながら大人向けの歌を歌う少女として知られており、
それが問題になったことがありました。
しかし、1949年になると、かえってそれが面白がられ、
3月には『のど自慢狂時代』で「東京ブギウギ」を歌う少女として映画初出演。

その後の映画への出演は続き、
12歳の時に主演を果たした『悲しき口笛』の大ヒットにより、
国民的なスターとしての礎を築いていきます。

美空ひばりの人気はうなぎ登りに上がっていき、
1952年に発表した映画の主題歌『リンゴ追分』は70万を超える大ヒットとなりました。

紅白の紅組の大トリを担当するなど、歌手としても女優としても人気の絶頂を迎えた美空は、
1960年に第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞し「歌謡界の女王」としての地位を確立。

しかし、親族が相次いで亡くなり、
ついには美空のそばでいつも支え続けてきた母喜美枝までもが死去。

あまりのショックにより、美空は不摂生な生活を送るようになり、
重い病に侵されてしまいます。

闘病中も新曲を発表し、伝説と言われる「不死鳥コンサート」を開催するなど、
美空は最後の瞬間まで歌手として精力的に活動を続けました。

そして、生涯最後のシングルとなる「川の流れのように」を発表した後、
1989年6月24日に病により52年の生涯に幕を閉じました。

美空ひばりの人気は死後も衰えず、
様々なアーティストやタレントに影響を及ぼした存在として語り継がれています。

今日の我に明日は勝つ

1937年5月29日 神奈川県横浜市磯子区で生まれる
1943年6月 父・増吉の壮行会で『九段の母』を披露
1945年 「青空楽団」を設立
美空和枝の名前で初舞台を踏む
1946年 NHK『素人のど自慢』に出場し『リンゴの唄』を披露
「子供らしくない」という理由で不合格になる
横浜市にある杉田劇場で初舞台を踏む
1947年 のど自慢の審査員であり、昭和期を代表する作曲家である古賀政男の前で『悲しき竹笛』を披露
井口静波らの一行と共に地方巡業を始める
4月28日 母と共に乗っていたバスが事故を起こし、生死の境をさまよう
1948年2月 神戸松竹劇場に出演した際、山口組三代目組長の田岡一雄のもとに挨拶に行き、気に入られる
5月 当時人気絶頂であった川田晴久に抜擢され、横浜国際劇場公演に出演
1949年3月 東横映画『のど自慢狂時代』で映画初出演
8月 『踊る竜宮城』に出演。主題歌『河童ブギウギ』でレコードデビュー
主演を果たした『悲しき口笛』が大ヒット
1950年 第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のために川田晴久と共にアメリカに渡る
帰国後、川田晴久と2人で『東京キッド』に出演
1951年 『あの丘越えて』で鶴田浩二と共演
5月 新芸術プロダクションを設立
1952年 『リンゴ追分』で当時の史上最高ヒットとなる
1953年 『お嬢さん社長』に主演
1954年 第5回NHK紅白歌合戦に初出場
1955年 『ジャンケン娘』で江利チエミ、雪村いづみと共演
これを機に「三人娘」として人気を集める
1956年 小野満と婚約するが、その後婚約破棄
初の沖縄公演を行い、1週間で5万人を動員する
1957年1月13日 浅草国際劇場にて、熱烈なファンの少女から顔に塩酸をかけられる。
幸い顔に傷跡は残らず、その後歌舞伎座公演に復帰する
3年ぶりに紅白歌合戦に出場し、紅組の大トリを務める
1958年4月1日 田岡一雄が設立した神戸芸能社の専属となる
6月 ひばりプロダクションを設立
7月 東映と専属契約を結ぶ
1960年 第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
「歌謡界の女王」の異名を取る
1962年 小林旭と結婚
1963年 肺結核により父・増吉が死去
1964年 小林旭と離婚
東京オリンピックの時期に発表した『柔』が翌年にかけて大ヒット。キャリア最大の180万枚を売り上げる
新宿コマ劇場で初の座長公演を行う
1965年 第7回日本レコード大賞を受賞
1966年 『悲しい酒』が145万枚を売り上げる
1967年 『芸道一代』が大ヒットとなる
『真赤な太陽』が140万枚を売りあげる
1970年8月 ブラジル・サンパウロで公演を行う
第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを務める
1973年 弟が起こした不祥事により、暴力団である山口組と田岡との関係が問題視される
家族の絆を重視した美空は10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出演を辞退
大晦日はテレビ朝日放送の『美空ひばりショー』に出演するようになる
1980年 『おまえに惚れた』がヒット
1981年 母・喜美枝が転移性脳腫瘍により死去
父親がわりだった田岡が死去
1982年 親友の江利チエミが死去
1985年5月 誕生日記念のゴルフコンペで負傷
1986年 芸能生活40周年記念リサイタルを開催
1987年 全国ツアー四国公演の途中、足腰の激痛に耐えきれなくなる
4月22日 極度の体調不良により福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院
8月3日 福岡県済生会福岡総合病院を退院
1988年4月11日 「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を開催
1988年 「森田一義アワー 笑っていいとも!」に出演
生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングを行う
1988年12月25日、26日 クリスマスディナーショーに参加
「みだれ髪」の歌碑が建立される
1989年1月4日 『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に参加
1月11日 『川の流れのように』のシングルレコードが発売
2月7日 生涯最後のステージとなる九州厚生年金会館での公演に参加
5月29日 病室で52歳の誕生日を迎える
6月13日 呼吸困難を起こして人工呼吸器をつけられる
6月24日 呼吸不全により死去。享年52歳
7月22日 美空の葬儀が行われ、4万2千人が訪れる
死後、女性として初の国民栄誉賞を受賞
1990年 岩手県いわき市にひばり遺影碑が作られる
1993年4月 京都の嵐山に「美空ひばり館」が開館

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