平塚らいてう
元始、女性は実に太陽であった。
真心の人であった。
今、女性は月である。
他によって生き、他の光によって輝き、病人のような蒼白い顔の月である。
新しい女と称された女性解放運動家、兼作家の平塚らいてう。
戦前から昭和にかけて活動し、後の世代に大きく貢献しました。
「男尊女卑」の世の中で女性の権利を訴えた、平塚らいてうの人生を
彼女の残した名言から紐解いていきます。
また彼女の名言「元始、女性は太陽であった」についても解説します。
【『名言からみる』女性活動家平塚らいてうの人生】
女性の権利を求めて活動した平塚らいてうの生涯を
彼女の残した名言から紐解いていきます。
平塚らいてう(本名平塚明)は
1886年2月10日に東京都で誕生しました。
明治政府の高級官吏を父にも持つ彼女は高等教育を受ける中で
当時の日本社会のあり方に疑問を持ち、
性差別や男尊女卑の社会の中にいる女性の自我の解放を抱きます。
そして25歳の時青鞜社を立ち上げ、創刊した文芸誌『青鞜』の中で
女性の立場の現状を訴え、解放活動に励んでいきます。
この文芸誌の創刊の辞で語られた彼女の名言、
「元始、女性は実に太陽であった。」
という言葉には今の女性の地位の低さを訴えています。
そして元始のような男性の陰には隠れず、輝ける女性の立場を確立させていきたいという
平塚らいてうの理念が込められているのです。
この名言通りその後の彼女は、新婦人協会を発足し
「婦人参政権運動」と「母性の保護」を求めたり、
治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)
に精力を注ぎました。
時が経ち、第二次世界大戦後の1946年に
日本国憲法で女性の参政権が認められます。
その時、平塚らいてうは次のような言葉を残しました。
「いまこそ、解放された日本の女性の心の底から、
大きな、大きな太陽が上がるのだ。みよ、その日がきたのだ
わたしの心は、いまかぎりないよろこびにあふれている。」
その反面、アメリカの指示で達成したことに
納得のいかなかった彼女は60歳を越えても
婦人運動と共に反戦・平和運動に力を入れ、
晩年まで活動家としての人生を送りました。
平塚らいてうは志をまっとうするために人生を捧げた
偉大な日本の女性です。
女たちはみな一人ひとり天才である
【平塚らいてうの名言「元始、女性は太陽であった」とは?】
平塚らいてうの名言といえば
「元始、女性は太陽であった」という言葉が有名です。
そもそもこの言葉は、
平塚らいてうが女性の自由への解放を求めて作った青鞜社から創刊した
日本初の女性が手掛ける女性のための文芸誌『青鞜』の創刊の辞
として書かれた言葉です。
冒頭の文は、
「元始、女性は実に太陽であった。
真心の人であった。
今、女性は月である。
他によって生き、他の光によって輝き、病人のような蒼白い顔の月である。」
となっています。
平塚らいてうが生きていた時代は男尊女卑の強い時代でした。
女性に高等な教育は必要ないと言われた中、
女子大学に通った博識な彼女であっても選挙権すらありませんでした。
社会でも家庭でも一番下の身分とされていた女性たち。
古代社会は母系社会であり高い地位にいた女性が、
今は男性の影に隠れ、男性がいないと輝けない存在だという現状を
この名言で訴え、女性の自由への解放を求めたのです。
差別があることが当たり前の社会に
平等や女性の地位向上を訴えるということは
とても勇気のいる革新的なことでした。
社会に賛否両論を生んだ平塚らいてうのこの名言は、
女性蔑視、差別について考える大きなきっかけを世に与えたのです。
今日私たちが当たり前のように手にしている平等は
彼女たちの努力によってあるのです。
【まとめ】
・平塚らいてうは大正から昭和にかけ活動した女性解放運動活動家
・「青鞜社」を立ち上げ、25歳の時に雑誌を創刊した
・平塚らいてうは筆名であり、本名は平塚明(はる)
・戦後は主に反戦、平和運動に参加した
女性の自由と権利を求め活動した平塚らいてうらのおかげで
今日、日本は男女平等と呼ばれる社会を築けています。
自分は新しい女である。
太陽である。
唯一人である。
少くともそうありたいと日々に願い、日々に努めている
1886年2月10日 東京府東京市麹町区土手三番町(現:東京都千代田区五番町)で誕生
平塚明と名付けられる
1892年 富士見尋常高等小学校に入学
父から、国粋主義的な家庭教育を受ける
1894年 本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目、二丁目辺り)に引越す
本郷区公立誠之尋常小学校(現:文京区立誠之小学校)に転入する
1898年 誠之小学校高等科を卒業
父の意思により東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学する
1903年 日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部に入学
1905年 日暮里の禅の道場「両忘庵」(現:人間禅擇木道場)に通い始める
慧薫禅子という悟りを開いた証明である道号を授かる
1906年 日本女子大学校を卒業
卒業後、両忘庵で禅の修行をする
二松学舎(現:二松學舍大学)、女子英学塾(現:津田塾大学)で漢文や英語も学ぶ
1907年 成美女子英語学校に通い始める
課外文学講座「閨秀文学会」に参加する。教師の勧めで処女小説「愛の末日」を完成させる
講座を主催している東京帝大出の新任教師生田長江と付き合う
1908年3月21日 塩原事件を起こす。
日本女子大学校の桜楓会の名簿から抹消される。1992年に復活する
塩原事件を機に、性差別や男尊女卑の社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つ
生田長江の強い勧めにより、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』製作を始める
1911年 青鞜社を設立する
創刊の辞を「らいてう」という筆名で書く
9月 『青鞜』を創刊
1912年 岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を青鞜社から出版
夏に茅ヶ崎で出会った5歳年下の画家志望の青年奥村博史と事実婚を始める
1913年 婦人論を系統立て勉強する。同年『青鞜』の全ての号には付録に婦人問題の特集を組み込んだ
3月 『青鞜小説集』などを出版
1915年 奥村との家庭生活]と『青鞜』での活動の両立が困難になり、
1月号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲る
1918年 母性保護論争に参加
1919年 婦人公論で『現代家庭婦人の悩み』を発表
愛知県の繊維工場を視察し、新婦人協会設立の構想を固める
11月24日 女性の政治的・社会的自由を確立させるための
日本初の婦人運動団体として「新婦人協会」を設立する
1921年 過労と市川房枝との対立により協会運営を退く
1923年 文筆生活に入る
1929年 世界恐慌が始まると無政府系の雑誌『婦人戦線』に参加する
1945年 第二次世界大戦後、日本共産党の支持者として活動する
1950年 来日していたアメリカのダレス特使に全面講和を求める「日本女性の平和への要望書」を提出
1951年1月 日平和条約、日米安全保障条約に反対し「再軍備反対婦人委員会」を結成する
1953年4月5日 「日本婦人団体連合会」を結成。初代会長に就任する
12月 「国際民主婦人連盟」副会長に就任する
1955年 「世界平和アピール七人委員会」の結成に参加し、委員となる
1962年 「新日本婦人の会」を結成する
1966年 ベトナム戦争への為に、「ベトナム話し合いの会」を結成
1970年7月 「ベトナム母と子保健センター」を設立する
1971年5月24日 胆嚢・胆道癌の為、85歳で死去