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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

山本五十六
大日本帝国の元帥海軍大将。 真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの作戦を指揮した人物としても有名。
出生国:日本
誕生日:1884年04月04日
命日:1943年04月18日

山本五十六

やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

山本五十六は日露戦争や太平洋戦争で活躍した
優秀な軍人です。

真珠湾攻撃の発案者でありながら、
戦争の早期終結に励んだ人でもあります。

彼は一体どのように戦乱の世を生きたのでしょうか。

彼の人生に迫るとともに、
残した名言もご紹介していきます。

名言から山本五十六の人間性や人生観がみえてきます。

 

【ミッドウェー海戦で知られる山本五十六とは?】

「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる」
第二次世界大戦中に命を落とした軍人のひとり山本五十六の名言です。

優秀な軍人として名高かった彼はなぜこのような名言を残したのでしょう。

山本五十六は中学生の時に10歳年上の甥が病死したことをきっかけに
軍人への道を歩み、海軍大将にまで登り詰めました。

山本五十六の軍人としての大きな武器のひとつは
優れた国際感覚にあります。

彼はアメリカに何度か駐在し、
アメリカやイギリスを熱心に視察していたのです。

その視察研究したアメリカの石油や自動車、
航空機や船舶などの生産流通は
対米戦の戦略を立てる上で大いに役立ちました。

そしてその国際感覚で戦況を冷静に見極めていました。

アメリカやイギリスに圧倒的な差を感じていた山本五十六は、
戦うべきではないと考えていました。

そうした中、1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結。

組織に抗えずにアメリカとの対立を受け入れます。

山本五十六は優れた国際感覚を持つだけでなく、
非常に優れた戦略家でもありました。

早めに決着を付けなければ日本は勝てないと
対アメリカとの早期終結を図るべく思いついたのが、
あの真珠湾攻撃だったのです。

敵の主力機動部隊を初戦で壊滅させて
戦意をくじき、敵の機動力の喪失を目標としたこの攻撃。

アメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能にするという面で
大きな成功を収めたのです。

しかしみなさんもご存じの通り、
ここから長い戦争の幕開けとなってしまいました。

山本五十六の作戦事体は凄かったのですが、
日本軍は当時、ミスを連発します。

あの有名なミッドウェー海戦もその一つです。

この戦いでは山本五十六の優れた作戦は上手く連携出来ておらず、
戦況を大きく変える大敗となりました。

そんな彼も最後は海軍甲事件で戦死します。

反アメリカ対戦でありながら、
軍人として戦った山本五十六はなにを想い生きたのでしょうね。
続いて彼が残した名言たちをご紹介します。

人は神ではない。誤りをするというところに人間味がある。

【元帥海軍大将までに上りつめた、山本五十六の名言たち】

先見の目をもった海軍大将、山本五十六の名言です。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず」

「苦しいこともあるだろう。云い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじつとこらえてゆくのが男の修行である。」

山本五十六の有名な名言です。

大日本帝国海軍の連合艦隊司令長官として
部下の育成にたいへん熱心に、
多くの軍人を育ててきた彼の教育論です。

信頼して任せると言える教育者としての
彼の器の大きさを感じます。

「年兵を養うは、ただ平和を守るためである」
平洋戦争開戦時には最後の最後まで反対していた山本五十六。

軍隊は他国を侵略するためにあるのではなく
他国の侵略から祖国を守るためにある。

望まない戦争を賢く避けたいという
平和を願う気持ちがわかる名言です。

「ああ、私は天皇陛下に面目が立たない。
戦死した将校や戦友たちの家族に告げるべき言葉もない」

遺書に残されたこの言葉が
戦争の悲惨さを物語っていますね。

"どの立場になっても後悔や悲しみを残してしまうのが戦争です。

戦争の時代を生きた山本五十六の名言を聞き、
今一度平和について考えてみてください。

 

【まとめ】
・元帥海軍大将を務めた軍人、山本五十六
・真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦の発案者
・優れた策略家
・当時としては珍しい国際感覚に優れた人物
・ 勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章を受章

策略家であり、世界を把握する目を持っていた山本五十六は、
優秀な軍人として後世に名を残しています。

人は誰でも負い目を持っている。それを克服しようとして進歩するものなのだ。

1884年4月4日 新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町で誕生
1901年 海軍兵学校32期に200名中2番で入学
1904年11月 海軍兵学校を192名中11番で卒業
   少尉候補生として練習艦「韓崎丸」に乗船する
1905年1月 少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」に配属となる。
   5月27日 日本海海戦に参加する。左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う
   その後、各艦に勤務しながら
   海軍砲術学校普通科学生として16ヶ月間、海軍水雷学校普通科学生として4ヶ月の教育を受ける
1909年 アメリカに駐在する
1911年 海軍大学校を卒業
    海軍砲術学校と海軍経理学校の教官となる。同僚の米内光政と盟友になる
1913年12月 海軍大学校に入学
1915年 牧野忠篤の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する
1916年12月 海軍大学校を卒業
1917年1月 腸チフスにかかる。療養中に発症した虫垂炎で生命の危険に陥る
      故郷長岡で翌年6月頃まで休養する
   8月31日 一目ぼれした三好礼子と結婚
1919年4月5日 アメリカに駐在の命令を受ける
         ハーバード大学に留学する
1921年7月19日 帰国する
        軽巡洋艦「北上」副長、続いて海軍大学校教官となる
1922年 井出謙治大将と共に欧州・米国を視察する
1924年9月 本人の希望で砲術から航空へ転科。霞ヶ浦航空隊付となる
   12月 教頭兼副長となる
1925年12月 駐米大使館付武官となる。再びアメリカに滞在する
1928年3月 帰国する
   8月 軽巡洋艦「五十鈴」艦長を務める
   4ヵ月後に多段式空母「赤城」の艦長に就任する
1929年11月 海軍少将に進級する。ロンドン軍縮会議に参加した
1930年12月 海軍航空本部技術部長となる
      未熟である日本海軍航空機の発展に力を注ぐ
1933年10月3日 第一航空戦隊司令官となる
1934年9月20日 第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に海軍側首席代表として参加
1935年2月 日本に帰国する
   12月 海軍航空本部長に任命される
1936年12月1日 海軍次官に抜擢される
1939年8月30日  連合艦隊司令長官(第一艦隊司令長官兼任)となる
"1940年11月15日 海軍大将となる
"
1941年1月7日  及川古志郎海相に対米戦に対する作戦(真珠湾作戦)を提出
   12月8日  自身の発案と言われている真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦される
1942年4月4日  勲一等加綬旭日大綬章、功二級金鵄勲章を受章
1943年4月18日  海軍甲事件で戦死する

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