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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

国木田独歩
小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。 代表作は『武蔵野』や『牛肉と馬鈴薯』など。
出生国:日本
誕生日:1871年08月30日
命日:1908年06月23日

国木田独歩

友を得るに急なるなかれ。親友は自然に得る者なり。

『婦人画報』の創業者として有名な国木田独歩。

編集者として名をはせる彼は、
芥川龍之介や夏目漱石からも評価された
数々の代表作を生み出した小説家でもありました。

そんな国木田独歩の人物像を
彼の書いた代表作の紹介を交えながらお伝えします。

 

【「婦人画報」の創刊者、国木田独歩とは?】

代表作「武蔵野」などを書いた小説家国木田独歩は
1871年8月30日に千葉県で誕生します。

少年の頃から読書好きで、成績も優秀だった彼は、
現在の早稲田大学の前身である、東京専門学校英語普通科に入学。
そこでジャーナリストの徳富蘇峰と出会い、文学の道に進みます。

卒業後は、英語教師や家庭教師をするかたわら、
「酒中日記」や「帰去来」などを執筆。

その後徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となった国木田独歩は
日清戦争の従軍記者として活躍。
弟に宛てた「愛弟通信」をルポルタージュとして発表すると
「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となります。

編集者としても活躍し雑誌の企画も行っていた独歩ですが、
小説を書くことも続けていました。

自然主義の先駆者と言われた独歩ですが、
当時はその作風が理解されず、小説家としてはあまり活躍の機会がありませんでした。

そんな国木田独歩に転機が訪れます。

1966年に発表した作品集「運命」が高く評価され
「自然主義運動」の中心的存在として、注目の的となるのです。

しかしこの時、国木田独歩は肺結核にかかり療養を余儀なくされました。

独歩は療養生活を送りながらも「竹の木戸」「窮死」「節操」を発表し
執筆活動を続けます。

そして、1908年6月23日。病状の悪化により息を引き取りました。

忍耐と勤勉と希望と満足とは境遇に勝つものなり。

【文豪も絶賛した国木田独歩の代表作】

自然主義の先駆者として有名な国木田独歩の
代表作をご紹介します。

『武蔵野』
1898年1月 から2月に発表された
「国木田独歩といえばとこの小説」と言われる代表作です。

初期の作品一八篇を収めた自選の短篇集で、
詩情豊かな文章により、武蔵野の風景を書きつづっています。

武蔵野の自然に対する独歩の思いが、詰め込まれた作品です。

『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』
1901年11月に発表された短編集です。

全体を通して、独歩ならではの
宇宙観、生命観、人生観、宗教観が語られています。

むずかしいと言われやすい独歩の作品の中でも、
比較的読みやすい作品と言われています。

『愛弟通信』
1894年10月21日 から18 95年3月12日に『国民新聞』で掲載された
ルポルタージュです。

国民新聞記者・国木田哲夫と世に名を広めた作品であり、
日清戦争の間、海軍の従軍記者として戦争について書いた記録を
彼の弟に宛てた形で書いた日記のような物語になっています。

 

【まとめ】
・国木田独歩は小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者
・雑誌『婦人画報』の創刊者
・『国民新聞』の記者として活躍する
・自然主義の先駆者

小説家、編集者として幅広く文学に貢献した国木田独歩は
後世でも読み継がれる作品を数々残したのです。

人はどんな場合に居ても常に楽しい心を持ってその仕事をすることが出来れば、
即ちその人は真の幸福な人といい得る。

1871年8月30日 宮谷県海上郡銚子で誕生
1887年 学制改革のため山口中学を退学する
    同級の今井忠治の勧めにより上京する
1888年 東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学する
    徳富蘇峰と知り合いになり影響を受け文学の道を志す
    『女学雑誌』に処女作「アンビシヨン(野望論)」を発表
    教会に通い始め、日本基督教会の指導者・植村正久を崇拝する
1889年7月10日 名を「哲夫」に改名する
1890年9月 英語政治科へと転科する
1891年1月4日 植村正久より洗礼を受ける
       学校改革と校長・鳩山和夫への不信のため同盟休校を行ない、その後退学する
1892年2月 1894年までの2年間柳井に居住する
1893年10月 大分県佐伯市の鶴谷学館に英語と数学の教師として赴任する
1894年7月末 退職する
1894年 『青年文学』に参加する
    民友社に入り、徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となる
    日清戦争に海軍従軍記者として参加した際、弟・収二に宛てた「愛弟通信」をルポルタージュとして発表。
   「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となる
1895年11月 日本キリスト教婦人矯風会の幹事 佐々城豊寿の娘・信子と結婚
1896年 信子が失踪。協議離婚する
    東京府豊多摩郡渋谷村に家を構え作家活動を再開する
1898年 下宿の大家の娘・榎本治と結婚する
1899年 『報知新聞』に入社し再び新聞記者となる
1900年 政治家・星亨の機関紙『民声新報』に入社し編集長となる
1901年 初の作品集『武蔵野』を刊行
    星の暗殺を受け『民生新報』を退社
1903年 「運命論者」「正直者」を発表し自然主義の先駆となる
   3月 月刊のグラフ雑誌『東洋画報』の編集長となる
   9月 雑誌は赤字で9月号から矢野龍溪が社長として近事画報社を設立。雑誌名を『近事画報』と変更
1904年 日露戦争が開戦し、月1回の発行を月3回する。『戦時画報』と誌名を変更する
    人気を博し最盛期の部数は月間10万部を超える
1906年初頭 新しい雑誌を創刊するも上手くいかず、近事画報社が解散
      自ら独歩社を創立する
1907年 独歩社が破産する
    前年に刊行した作品集『運命』が高く評価され、自然主義の中心的存在として文壇の注目の的となる
    肺結核にかかる
1908年6月23日 病状が悪化し36歳で死去

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