前島密
人のためによかれと願う心を常に持てよ。
日本郵便の父と呼ばれる前島密は、
1835年2月4日に現在の現在の新潟県上越市で生まれました。
豪農であった父が幼い頃に亡くなり、
母方の叔父である叔父糸魚川藩医、相沢文仲に暮らすこととなります。
その後、江戸で医学、蘭学、英語を学んだ前島は、
渡航術を学ぶために函館に渡りました。
蘭学を学んでいた前島は、1865年には 薩摩藩が持つ、
西洋の学問を学ぶ学校で講師として働き始めます。
前島が政界へと進んだのは1869年のことでした。
明治政府に招かれたことにより民部省・大蔵省に入り、
この頃に名前を「前島密」と改名しています。
官僚・政治家となった前島は郵便制度創設を目指し、
海外の郵便制度の視察と、鉄道建設借款契約を結ぶためにアメリカに渡りました。
誓って兄弟の血はすすらない。
税金で飯を食おうとは思わない。
日本郵便の父として知られている前島ですが、
郵便制度を創設するために本格的に動き出したのは、アメリカから帰国した後でした。
1871年には前島の尽力により、
日本の近代的郵便制度の基礎が確立されます。
現在も使われる「郵便」や「切手」、「葉書」などの名称を決めたほか、
1円切手の肖像でも知られています。
早稲田大学の創設者である大隈重信とも関わりが深く、
1886年には早稲田大学の2代目校長に就任しています。
前島はにも熱心な人物で、
漢字を廃止して平仮名を国字にすべきと主張した「漢字廃止論者」でもありました。
その一環として、1873年には全てひらがなで書かれている
「まいにちひらがなしんぶんし」を刊行しています。
数々の功績から1902年には男爵の爵位を授与され、
その2年後には貴族院男爵議員に選任されています。
日本の郵便制度に大きな功績を残した前島密は、
1919年4月27日に横須賀市にある別荘、如々山荘で84年の生涯を終えました。
縁の下の力持ちになることを厭うな。
1835年2月4日 現在の新潟県上越市大字下池部で生まれる
1847年 江戸で医学・蘭学・英語を学ぶ
1858年 航海術を学ぶため函館へ行き、名前を巻退蔵と改める
1865年 薩摩藩で西洋の学問を教える学校(開成所)の蘭学講師になる
1866年 幕臣前島家の養子となり、前島来輔と名乗るようになる
「漢字御廃止之議」を将軍・徳川慶喜に提出する
幕臣清水与一郎の娘、奈何(仲子)と結婚
1867年 開成所の数学教授に就任
1869年 明治政府に招かれ、民部省・大蔵省に務める
名前を密に改名
1870年 太政官に郵便制度創設を上申
郵便制度視察と鉄道建設借款契約締結のためにアメリカに渡る
1871年 日本に帰国し、駅逓頭になる
郵便制度創設に尽力し、日本の近代的郵便制度の基礎を築く
1872年 陸海元会社(現、日本通運株式会社)の設立と、
郵便報知新聞(現・スポーツ報知)刊行にそれぞれ関与する
1873年 まいにちひらがなしんぶんしを創刊
1877年 駅逓局長に任命される
第1回内国勧業博覧会審査官長に就任
1878年 元老院議官を兼任する
1879年 内務省駅逓総監に就任
1881年 明治十四年の政変の際に辞職し、大隈重信らと立憲改進党を創立
1886年 現在の早稲田大学の2代目校長に就任
関西鉄道会社社長に就任
1888年 逓信次官に就任
1894年 北越鉄道株式会社の社長に就任
北越鉄道の建設を開始
1902年 男爵の爵位を授与される
1904年 貴族院男爵議員に選任
1919年4月27日 現在の神奈川県横須賀市芦名の別荘、如々山荘で死去。享年84歳