この記事の目次
不可能を可能にした偉大な政治家
「できるはずがない」そう言われたとき、あなたならどうしますか?
日本では、芸能人などの著名人が、政治の道に進んだという話は良く耳にするかと思います。
しかし、起業家が政治家になったという話はあまり聞いたことがないかもしれません。
2016年、南アフリカの都市ヨハネスブルグの市長に就任したハーマン・マシャバさんは、起業家から政治家へと転向した人物の一人でした。
そんな彼の人生には、常に「不可能」の3文字が付きまとっていたと言われています。
貧困、人種差別、周囲からの批判。
逆風だらけの人生から、ハーマンさんはなぜヨハネスブルグの市長へとなったのでしょうか?
その軌跡を辿っていきましょう。
逆風だらけだった人生
ハーマンさんは、南アフリカのもう一つの首都と言われる「プレトリア」から30キロ離れた、小さな村で生まれました。
幼少期から貧しくはありましたが、努力家であったハーマンさんは必死に勉強を続け、無事に大学へと進学。
しかし、そこで黒人を隔離し差別しようとする運動であるアパルトヘイトに巻き込まれてしまいます。
黒人であったハーマンさんは、大学での勉強を続けることができなくなり、当時目指していた「政治」の道を断念せざるおえなくなりました。
当時は黒人と白人の間で明らかな教育の差があり、まともに読み書きができる黒人はあまりいませんでした。
比較的教育には恵まれていたハーマンさんは、数少ない読み書きができる黒人として配送員の仕事に就き、月16ドルほど稼いでいたそうです。
しかし、仕事があっても自由がなければ意味がないと悟り、ハーマンさんは仕事を辞めて起業する決心を固めます。
起業しようとしたものの、ハーマンさんが暮らしていた「非白人居住区」には起業に対する支援など一切ありませんでした。
ハーマンさんは仕方なく、友人に借金をして「Black Like Me」という美容院を開業。
多くのトラブルに見舞われながらも、美容院は成功をおさめました。
成功により自由を手に入れたハーマンさんでしたが、それで満足することはありませんでした。
彼は、アパルトヘイトによって一度は閉ざされた、政治の道へ再び挑む決心を固めたのです。
不可能を可能に
ヨハネスブルグの市長選に出馬したハーマンさんでしたが、ここでも多くの批判にさらされました。
誰もがハーマンさんの当選は不可能だと言い、批評家たちにも厳しい言葉を浴びせられました。
ハーマンさんが美容院を起業した時も、市長選に出馬した時も、彼を応援しようとする人はほとんどいなかったのです。
それでもめげなかったハーマンさんは、2016年8月に見事市長に当選。
「誰もが当選など不可能だと言いました。これまで、チャンスをくれる人などいなかった。 ですが、私は今どこに座っているでしょうか? ご覧ください!」
市長選に勝利した時、ハーマンさんは取材陣にこう伝えたと言われています。
守る政治ではなく、与える政治を行った
就任後、ハーマンさんはすぐに古い体制を変えるために動きはじます。
当時のヨハネスブルクでは経済的な格差が大きく、約3人に1人が仕事についていませんでした。
その一方で、一部の重役や管理職などの人間には、多くの富がもたらされていました。
ハーマンさんは、その体制を守り自分が豊かになることよりも、そのお金を街のために役立てることを選んだのです。
ハーマンさんは、それまでの政権が行っていた、廃棄物産業などの専売特許システムを取り壊し、それを7つのビジネスに分けました。
重役や管理職に渡されていたお金は、雇用や街の整備のために使い、多くの若者たちが職を得られるようにしました。
その結果、雇用数は増え、医療設備やインフラが充実していったのです。
人種差別により、政治家としての未来を一時は閉ざされてしまったハーマンさん。
しかし彼は、どれだけの逆風にさらされようとも、諦めることなく夢をかなえました。
そして、今は自分と同じような境遇にいる若者の手助けになろうと、あたえる政治を尽力し続けているのです。