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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

三好達治
昭和期の古典派の代表的な詩人。 著書は詩集である『測量船』『春の岬』など。
出生国:日本
誕生日:1900年08月23日
命日:1964年04月05日

三好達治

"いいえ昨日はありません。
今日を打つのは今日の時計。
昨日の時計はありません。
今日を打つのは今日の時計。

三好達治は大阪生まれの詩人、翻訳家、文芸評論家です。

明治生まれの三好達治は長生きし、
代表作『測量船』など数多くの詩集を世に出します。

また「詩を読む人のために」という詩歌の手引書を
出版し多くの人々に詩を広めました。

今回は彼の人物像、そして代表作をご紹介します。

 

【代表作から見る三好達治という人物】

明治、昭和を生き、代表作と言われる詩をいくつも残した
三好達治は1900年 8月23日に大阪市西区西横堀町で誕生しました。

少年時代は貧困と病気に苦しみながらも
東京帝国大学文学部仏文科に入学し、
幼いころから興味のあった文学の世界に入ります。

抒情(じょじょう)詩人として活躍した彼の人生、思想が
読み取れる代表作を紹介していきます。

・『測量船』
三好達治の処女作となったこの代表作の中には、
近代的な詩を作るために若い彼が苦闘しながらも
挑戦していく彼の姿がわかる作品が収められています。

またこの作品は美しい言語感覚で高い評価を受けていて
彼が詩人として溢れる才能の持ち主であることも見て取れます。

・詩集『捷報いたる』『寒柝』『干戈永言』
陸軍士官学校に入っていた経歴を持つ彼は
典型的な「帝国臣民的主体」の思想を持っていました。

太平洋戦争が始まると
日本の勝利や日本の国家国民を賞賛する「戦争詩」を
いくつも作成し、これらの詩集にまとめます。

ちなみに彼自身は文壇最強と言われるほど喧嘩が強かったそうです。

・詩集『花筺』
彼には結婚してもなお忘れられず、妻と離婚してまで
生涯愛した女性がいました。

それは大学時代に知り合った自身が尊敬する
萩原朔太郎の末の妹の萩原アイです。

彼女は23歳で2度の離婚を経験しているわがままな性格だったそうですが、
華のある美人な顔立ちで三好達治は一目ぼれをします。

この作品は42歳でようやくアイを妻に迎えることができた時に
彼女への恋心を歌った作品です。

結局、結婚生活は上手くいかず離婚してしまったそうですが、
彼は死ぬまで若い時アイの幻影が断ち切れなかったようです。

日本語の伝統を近代に生かした独自の詩風で人気を集めた三好達治は
"詩の中に自身の人生を投影させています。

"

人は仰いで鳥を見るとき、その背景の空を見落とさないであろうか

【詩人・三好達治の代表作たち】

日本芸術院賞や読売文学賞を受賞した三好達治の代表作を
ご紹介します。

・処女作『測量船』
1930年12月に刊行された彼の代表作を語る上ではずせない詩集です。

母への切ない慕情が溢れる彼が書いた代表作『乳母車』や、
わずか二行の短い詩で読む者の想像力を掻き立てる『雪』などが
収められています。

抒情詩人である三好達治の詩世界をよく表しているこの詩集は
新鮮なリリシズムと緻密な言語感覚で
高く評価されました。

・梶井基次郎に捧げた「閒花集」
1934年7月に出版されたこの詩集は彼の代表作は、
肺結核で亡くなった学生からの友人梶井基次郎に向けた
「砂上」「揚げ雲雀」「チューリップ」「畎畝」「庭前」「空山」「訪問者」
が収められています。

彼の友人を亡くした深い悲しみが伝わってくる作品たちです。

・「砂の砦」
1946年終戦直後に出した詩集で、
敗戦を悲嘆しながらも絶望の中から立ち上がろうという詩が
収められています。

この中の『鴎』という詩は後に曲がつけられ
合唱曲として歌われるようになります。

「ついに自由は彼らのものだ」というフレーズが
12回も繰り返されたこの詩は読む者によって様々な解釈がされています。
『砂の砦』は詩に感動することもさることながら、
戦争の記憶を私たちに伝えてくる文献でもあるのです。

三好達治の代表作はほかにもあり、
どの作品も美しい言語でリリカルな世界を作り上げています。

 

【まとめ】
・昭和を代表する詩人であり、翻訳家、文芸評論家
・東京帝国大学文学部仏文科を卒業した
・新しい抒情詩人として活躍した
・詩歌論​『諷詠十二月』、『詩を読む人のために』を刊行した

前衛詩の書き手であろうとした三好達治は
昭和を代表する詩人として数多くの作品を後世に残しています。

鵞鳥─たくさん一緒にいるので自分を見失わないために鳴いています。

1900年8月23日 大阪市西区西横堀町で誕生
1920年 陸軍士官学校に入学する
1921年 北海道まで大脱走をし退学処分となる
    家業が破産し父が失踪する
1922年 叔母が学費を出し、第三高等学校文科丙類に入学する
    同級生丸山薫の影響のより詩作を始める
    百田宗治の『椎の木』に作品寄稿する
1925年 東京帝国大学文学部仏文科に入学する
    同人誌『青空』に16号から参加する
1927年 東京の萩原朔太郎の元で下宿する。詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。
1928年 東京帝国大学文学部仏文科を卒業する
1930年 処女詩集『測量船』を刊行する
1944年 雄島村米ヶ脇に移住。『花筐』を刊行する
1946年 『故郷の花』『砂の砦』を刊行する
1953年 芸術院賞を受賞
1963年 読売文学賞を受賞
1964年 心筋梗塞に鬱血性肺炎を併発し死去

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