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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ルートヴィヒ・グットマン
ドイツ出身のユダヤ系神経学者。「パラリンピックの父」とされる。
出生国:ドイツ
誕生日:1899年7月3日
命日:1980年3月18日

ルートヴィヒ・グットマン

失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ

障害者スポーツ発展への扉を力強く押し開き、
確かな基礎を築いた人物こそが、ルードヴィヒ・グットマン博士です。

グットマン博士は、のちに「パラリンピック」と呼ばれる障害者による競技大会を主催し、
オリンピックに並ぶ世界的な大会へと成長させて行きました。

「障害者スポーツの父」「パラリンピックの父」と呼ばれたルートヴィヒ・グットマンの偉業を振り返っていきましょう。

【多くの名言を残した『パラリンピックの父』ルートヴィヒ・グットマン】

様々な名言を残したルートヴィヒ・グットマンとは、どのような人物だったのでしょうか?

ドイツに生まれながらも、ナチスの台頭によってイギリスに逃れたグッドマン。
1944年なると、グッドマンはロンドン郊外のストークマンデビル病院に新設された、脊髄損傷センターを率いることとなります。

第二次世界大戦の真っ最中ということもあり、センターには戦闘で傷ついた兵士が次々と運ばれてきました。
下半身不随など、重い障害を負ってしまった患者と向き合ううちに、グッドマンは「スポーツが心にも体にも良い作用をもたらす」と考え、
治療とリハビリテーションにさまざまなスポーツを取り入れていきました。

パンチボール訓練、スヌーカー、車いすバスケットボール、水泳、アーチェリー、卓球など、
脊髄損傷センターではさまざまなスポーツが治療に用いらたと言われています。

さらにグットマンは「スポーツ」を治療やリハビリにとどまらせるのではなく、競技の段階にまで進めたのです。

1948年に開かれた「ストークマンデビル競技」は、アーチェリーの種目にわずか16人の車いす選手が出場しただけの、
しごくささやかな大会でした。

しかし、グッドマンは
「小規模ではあったが、その大会は競技スポーツが健常者の特権ではなく、
重度障害者でもその気になれば、スポーツができるということを世間に示した」
と、大会の発展を確信したような言葉を残しています。

その言葉の通り、1960年にローマで開かれた「国際ストークマンデビル競技大会」では。
21カ国から400人の選手が11種目に参加。
世界中が注目するこの大会は、第1回のパラリンピック大会として認定されたのです。

今や「パラリンピック」はオリンピックに並び、世界中で認知される国際大会へと発展していきました。

パラリンピック大会は、一人の先駆者の「信念」と「情熱」が道を切り開き、
壮大な夢を実現させた結果でもあるのです。

引き出せるのは、人間の最高だ

【名言があらわすルートヴィヒ・グットマンの人生】

「失われたものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ。」
世界で初めて障害者による競技大会を主催し、
「障害者スポーツの父」と呼ばれるユダヤ系ドイツ人の医師、ルートヴィッヒ・グットマンの名言です。

認知度が高いとはいえ、オリンピックに比べると、パラリンピックはまだまだメジャーな存在ではありません。
テレビで放送される機会も少ないため、パラリンピックが注目されにくいのは無理もないのかもしれません。

しかし、グッドマンはこのような名言も残しています。
「各人が持つ能力の限界にまで挑戦し、自らの最高の力を発揮しようと努力する。
人間の崇高で美しい姿に健常者も障害者も関係はないはずなのだ」

この名言のように、自分の力を最大限に発揮し、全力で何かに挑む姿には、障害者と健常者の違いなど存在しません。

むしろ、パラリンピックの選手たちは、私たち健常者には想像もつかないような様々な障害を背負い、
それぞれの困難に立ち向かう強さを持っているのです。

ぜひ、一度パラリンピックを見てみてはいかがでしょうか?
自らの手で栄光掴み取ろうと努力する選手たちの姿に、きっと感動してしまうでしょう。

【まとめ】

・脊髄損傷センターで障害を負った兵士などの治療を行った
・スポーツが心と体に良い影響をもたらすと確信し、リハビリと治療に取り入れた
・治療だけにとどまらず、障害者スポーツを国際的な大会に成長させていった
・グットが創り上げた「パラリンピック」は、今やオリンピックと並ぶ世界的な大会へと発展している

ルートヴィヒ・グットマンは、障害者に秘められた可能性に注目し、障害者スポーツに偉大な業績を残したです。

今、持っている能力を最大限に活用せよ

1899年 ポーランド トシェクにて出生
1939年 イギリスへ亡命
1944年 ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長に就任
1948年 第二次世界大戦の戦闘で障害を持った軍人に、リハビリにスポーツが最適とし、
ストーク・マンデビル競技大会を始めた
1959年 厚生省からの研修生(中村裕医師)を受け入れ
1960年 ローマで最初のパラリンピック大会が行われた
1964年 東京パラリンピックに参加
1976年 王立協会フェロー選出
1989年 死去

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