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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

フランツ・ペーター・シューベルト
各分野に名曲を残した作曲家。とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、歌曲の王と呼ばれることもある。『野ばら』『魔王』などが有名。
出生国:オーストリア
誕生日:1797年01月31日
命日:1828年11月19日

フランツ・ペーター・シューベルト

あるべき姿ではなくありのままの人間を受け入れよう

初期のロマン派の代表として
31年という短い生涯の中で
様々なジャンルの曲を1000曲以上作ったシューベルト。

シューベルトの代表作は
CMや教科書に使われてもいるので
聞いたことがある方も多いと思います。

【天才作曲家シューベルト。代表作が生み出されるまでの道のりとは?】

生涯1000曲以上も作曲したシューベルトですが、
代表作と言われる人気曲ができるまでの道は
決して平坦なものではありませんでした。

シューベルトは貧しい家庭に生まれた為、
本来ならばピアノなどの高価な楽器を弾くことなどできないのです。

父がアマチュア音楽家であったことと
幼いころからシューベルトが才能を発揮し、
リヒテンタール教会の聖歌隊に入れたこと。

そこで指揮者ミヒャエル・ホルツァーの計らいで
ピアノの練習をさせてもらえたことが
シューベルトが音楽家になれたきっかけと言われています。

その後シューベルトは、ウィーン楽友協会音楽院の前身校である
コンヴィクトへ17歳まで通うこととなります。

ここではシュパウンやシュタットラーなど多くの友人ができ
精神的にも、経済的にも、シューベルト支えました。

卒業後、シューベルトは教師を経て作曲活動に専念するものの、
公演活動で稼ぐことができず、貧しい日々を送ります。

また、プロの音楽家ではなく堅実な教師の道を
選ぶことを望んでいた父との関係は、険悪なものになりました。

曲を書き続けるシューベルトは、舞台へ興味をもちますが、
作風や演奏家としてのスキル不足が目立ち、
なかなか名をあげられない日々を送ることとなります。

そんなシューベルトが、ついに日の目をみる出来事が起こります。

その出来事こそが、楽譜の出版です。

出版会社に恵まれなかったシューベルトは、
のちに彼の代表作と呼ばれることとなる「魔王」を自費出版。
これが、一般大衆の中で、大きな話題を呼ぶこととなります。

この出来事により、
「音楽=身分の高い人のもの」というイメージはくつがえり、
より幅広い人々が、音楽を楽しむ時代へと変化していったのです。

まさに、古典派時代からロマン派時代への幕開けです。

音楽の歴史を変えてしまったシューベルトは、
31年の生涯を終えるまで、作曲家として数多くの作品を残していったのです。

苦しみは理性を研ぎすまし、心を強くする

【シューベルトの歴史に残る代表作たち】

歌曲の王と言われるロマン派を代表する作曲家
シューベルトは、31歳という短い生涯の中で
交響曲、管弦楽、室内楽、ピアノ曲、歌曲など
様々なジャンルの作品を作りました。

"その中でも代表作と言われる作品をご紹介します。

"

「魔王」
シューベルトの代表作といえばこの曲です。

18歳の時にゲーテの詞に触発され短時間で書き上げたそうです。

彼の作品の中で最初に出版された曲でもあります。

この曲は、
歌手が単独で4役(語り、父親、息子、魔王)の4役を担います。

ピアノ伴奏はオクターブの連打で速く弾き緊張感を出しているので
かなり難易度の高い曲になっています。

アヴェ・マリア 「エレンの歌 第3番」
28歳の時に作曲した歌曲で、最も人気の高い作品の一つです。

マリアとありますが、宗教曲ではありません。

この曲のピアノ伴奏はとても簡単で、初心者でも引くことができます。

日本で有名なB-A-B-D-C-Bの「Ave Maria」の歌詞はこの作品です。

「野ばら」
日本では音楽教科書でお馴染みの歌曲ですね。

ゲーテが恋をした女性に送った詞に曲をつけたものです。

18歳の時に作曲したものでピアノの伴奏は単純で
わかりやすいです。

ほかにもシューベルトには
ピアノの曲では「ピアノソナタ第16番イ短調 」、「幻想曲ハ長調」、
室内楽ではピアノ五重奏曲「鱒」イ長調、「アルペジョーネ・ソナタ イ短調」
といった代表作があります。

 

【まとめ】
・シューベルトはロマン派時代初期を代表する音楽家
・31年の生涯で1000曲以上作曲する
・歌曲の王と言われる
・貧しい暮らしをする中でも才能や人に恵まれ音楽を続ける
・楽譜の出版により世に名が知れ渡る

短い生涯の中で沢山の作品、特に歌曲を多く作り、
後世に何作もの名作を残した歌曲の王がシューベルトです。

音楽を愛する人はだれも、決して不幸にはなりません。

1797年1月31日 ウィーン郊外のリヒテンタールで誕生
1803年 リヒテンタールの学校へ入学、父からヴァイオリンの初歩を習い始める
1804年 リヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に入る
    ピアノの練習を始める
1808年 ウィーン楽友協会音楽院の前身校であるコンヴィクトの奨学金を得る、入学
1810年 4月8日 - 5月1日の日付で34手ピアノのためのファンタジア』を作曲  
1811年 『五重奏序曲』、『弦楽四重奏曲』、『4手ピアノのためのファンタジア第2番』を作曲
1813年 父の聖名祝日のために歌詞と音楽からなる『カンタータ』を作曲
    最初の交響曲を作曲
    変声期を迎えコンヴィクト去り、父の学校で教職に就く
1814年 多くの楽曲を作曲。最初のオペラ『悪魔の悦楽城』、最初の『ミサ曲ヘ長調』
   『弦楽四重奏曲』3曲、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調』第1楽章、『潜水者』、『糸を紡ぐグレートヒェン』
1816年 法律学生フランツ・ショーバーに音楽を教え始めるがやめ、作曲に専念し始める
   『3つの儀式用カンタータ』、『プロメテウス・カンタータ』の作曲で初めて報酬を得る
1819年2月28日 歌曲の作曲家としての初めて公演をする
1820年 『魔王』の作品番号の最初の7曲を出版する
1821年 題名が原因で『陰謀者』が検閲で禁止される。
    他にも自身の曲が世に受け入れられず屈辱感と失望感に浸る
1825年 熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をする
    旅中に作曲したウォルター・スコット原詩の歌曲『ノルマンの歌』の作曲で最高額の収入を得る
1826年 ウィーンに留まる。たびたび体調不良に襲われる
1828年11月19日 兄フェルディナントの家で死去

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