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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

パブロ・ピカソ
最も多作であると『ギネスブック』に記されている美術家。『ゲルニカ』などが有名。
出生国:スペイン
誕生日:1881年10月25日
命日:1973年04月08日

パブロ・ピカソ

私は捜し求めない。見出すのだ。

パブロ・ピカソの作品は誰でも一度は
見たことがあるといってもいいほど有名ですね。

芸術家としては珍しく存命中に名声を手に入れた画家です。

そんな彼は最も多作だとギネスブックに載る程の作品と
数々の名言を残しています。

今回はパブロ・ピカソの生涯と名言についてお伝えします。

 

【パブロ・ピカソ『近代を代表する画家』の生涯】

キュビズムの創生者であり、多数の作品と名言を残したパブロ・ピカソの生涯は
どのようなものだったのでしょうか。

彼は1881年10月25、スペインのマラガで誕生します。

パブロ・ピカソは幼少期からその優れた芸術性を発揮し、
言葉を覚えるより先に絵を描き始めたと言われています。

美術学校に通っていた16歳の時、
絵画教師をしていた父の指導のもと古典様式に沿って描いた「科学と慈愛」が
マドリードで開かれた国立美術展で入選。

その後、学校で学ぶことに意味がないと中退をし、
美術館に通ってベラスケスらの名画を模写することで、芸術の道を深めていったピカソ。

20歳過ぎにパリに移住し制作活動に打ち込み、数々の名言も残します。

製作した作品は油彩や素描、版画、挿絵、彫刻など多岐にわたり、
その数約14万7800点で「最も多作な芸術家」として
ギネス世界記録に名を残しました。

彼の代表作としては、
1907年に描かれたキュビズムの創始を告げる作品「アヴィニョンの娘たち」や
1937年に描かれた「ゲルニカ」などがあります。

そんな彼は作品を作ることと同じくらい女性にも情熱を傾けていて、
作風がその時愛していた女性によって全く変わっているのです。

彼は生涯に2度結婚し、2人目の妻はピカソ76歳の時に26歳でした。

その他、生涯にわたって7人の女性と暮らしていたそうです。

そんな天才パブロ・ピカソ だからこそ数々の作品と名言を
残せたのですね。

人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。
これは我々の時代にはびこる病気だ。

【芸術だけじゃない?パブロ・ピカソが遺した名言たち】

パブロ・ピカソの残した名言をご紹介します。

彼の名言から彼の人生観、仕事観がみえてきます。

・名言からみる人生観

「人生で最もすばらしい癒し、それが愛なのだ」

「大切なことは、熱狂的状況をつくり出すことだ」

「冒険こそが、わたしの存在理由である」

「行動がすべての成功への根本的な鍵である」

「誰もが芸術を理解しようとする
ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか
人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、
理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか
"なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ」

"

彼の愛するものに情熱をかける生き様がよくわかる名言ですね。

そして彼に行動力があったことも感じます。

・名言からみる仕事観

「私は捜し求めない。見出すのだ」

「優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」

「私はいつも自分のできないことをしている。そうすればそのやり方を学べるからだ」

「太陽を黄色い点に変えてしまう絵描きもいれば、
黄色い点を太陽へと変えられる絵描きもいる」

「画家は、労働者が働くように勉強しなければならない」

パブロ・ピカソには確かに芸術の大きな才能がありました。

それだけではなく彼を成功に導いたのは仕事への情熱と
たゆまぬ努力する姿勢にあったのですね。

パブロ・ピカソは愛に満ち、仕事に情熱を注いだ方だったのです。
また数々の名言から
私たちの人生や仕事のヒントが見えてきますね。

 

【まとめ】
・キュビズムの創生者、画家パブロ・ピカソ
・最も多作であると『ギネスブック』に記されている
・数々の名言を残す
・生涯に2度結婚し、2人目の妻はピカソ76歳の時に26歳
・ピカソ美術館開館される

画家パブロ・ピカソは存命中から天才と呼ばれ
名声を手にした数少ない芸術家で、
数々の作品と名言を後世に残したのです。

誰もが芸術を理解しようとする。
ならば、なぜ鳥の声を理解しようとはしないのか。
人が、夜や花を、そして自分を取り巻く全てのものを、理解しようとしないで愛せるのはなぜだろうか。
なぜか芸術に限って、人は理解したがるのだ。

1881年10月25日 スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15で誕生
1891年 ガリシア地方ラ・コルーニャに移住する
1892年 ラ・コルーニャの美術学校へ入学
1895年 バルセロナに移住する。美術学校へ入学
1897年 マドリードで開かれた国立美術展で入選。佳作を受賞
    作品は父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』
    マラガの地方展では金賞を受賞する
  秋 マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ入学
1898年6月 王立サン・フェルナンド美術アカデミーを中退
1899年 バルセロナに戻る。身初の個展を開催する
1900年2月1日 再び個展を開く
1901年 雑誌「若い芸術」の編集に携わる。
6月 パリで個展を開く。「青の時代」の始まりである
1902年 画廊サラ・パレースでカザスとの二人展を開く。
   10月 パリでマックス・ジャコブと共に住み始める
1904年4月 パリに腰を据える
      詩人のマックス・ジャコブによって「洗濯船」と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借りる
1905年 ガートルード兄妹のパトロンができる
    「ばら色の時代」「桃色の時代」が始まる
1912年 モンパルナスへ移住
1913年 父ホセ・ルイス・ブラスコが死去
1916年 パリ郊外モンルージュへ移住
1918年1月 オルガ・コクローヴァと結婚する。パリ8区ラ・ボエシー へ移住
1921年 息子パウロが誕生
1928年 彫刻を専念し始める
1930年 『ピカソ夫人像』でカーネギー賞を受賞
1932年 マリ・テレーズ・ヴァルテルと共に生活を始める
1935年 娘マハが誕生
     詩作を始める
1936年 人民戦線政府の依頼で「プラド美術館長」に就任する
1939年 ニューヨーク近代美術館で個展を開く
1940年 ナチス・ドイツ占領下のパリへ移住。解放されるまでパリを離れられなくなる。
1944年 パリが解放される。サロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示する
    フランス共産党入党する
1945年 ロンドン、ブリュッセルで個展を開く
1946年 フランソワーズ・ジローと共に生活を始める
1947年 息子クロードが誕生
    陶器製作を始める
1949年 娘パロマが誕生
1953年 リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展を開く
1954年 ジャクリーヌ・ロックと共に生活を始める
1955年 カンヌのラ・カルフォルニに住む。妻オルガが死去
1961年 ジャクリーヌ・ロックと結婚する
1964年 日本、カナダで回顧展を開く
1966年 パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展を開く
1967年 シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
1968年、版画に専年する。半年間で347点を製作する
1970年 アヴィニョン教皇庁で新作油絵展を開く
   バルセロナのピカソ美術館開館する
1973年4月8日 南フランス、ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去

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