一人一人が持っている才能を正しく理解し、
最高のパフォーマンスを発揮する社会を作る

一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ジョセフ・ピュリッツァー
新聞出版者およびジャーナリスト。 アメリカ相手の裁判で、言論の自由を勝ち取った人物。 ジャーナリズムに多大なる影響を残し、彼の名を冠した『ピュリッツァー賞』も存在する
出生国:アメリカ
誕生日:1847年04月10日
命日:1911年10月29日

ジョセフ・ピュリッツァー

私達の国の未来をつくる力は、未来の世代のジャーナリストの手に委ねられている。

自身の名前がついたピュリッツァー賞が創設されるほどに
アメリカのジャーナリズムに多大な貢献をした
ジョセフ・ピュリッツァー。

新聞王とも呼ばれたジョセフ・ピュリッツァーの人物像と
彼の遺志を継いだピュリッツァー賞について
今回はご紹介します。

 

【ピュリッツァー賞の生みの親。ジョセフ・ピュリッツァーとは?】

ピュリッツァー賞の生みの親ジョセフ・ピュリッツァーは
1847年4月10日ハンガリーのユダヤ系の家庭に誕生します。

17歳でアメリカへ移住し、
コロンビア大学を卒業した後、21歳の時に
ドイツ語の日刊新聞「ウェストリッヒ・ポスト 」で働き始めます。

着々と成功を重ねた彼は、
36歳の時年間40,000ドルの赤字を出していた
「ニューヨーク・ワールド紙」を購入しました。

それまでにないスキャンダルなどの
センセーショナルな記事を扱う新聞としたことで
アメリカで最大の購読者を誇る新聞に成長させました。

そんな成功を収めた彼を
ライバルのニューヨーク・サン紙の編集者は
「信仰心を放棄したユダヤ人」だと
紙上で攻撃したのです。

それにより体を悪くした彼は主筆の職を辞任してしまいました。

しかしそれからもマンガの転載やカラー化するという革新的な技術で、
ジャーナリズム戦争をしたライバル紙「ニューヨーク・ジャーナル紙」
に対抗します。

さらにジョセフ・ピュリッツァーのジャーナリズムの変革は続きます。

1909年ワールド紙に掲載した詐欺事件の件で
匿名の誹謗したことで起訴されますが、
法廷が報道の自由の勝利だと起訴を差し戻すのです。

これにより報道の言論の自由が認められました。

また彼は米国の新聞王と言われた一方で共和党に加わり、
アメリカ合衆国連邦下院議員に選任されるなど
政治活動も並行して行っていました。

報道に革命をもたらしたジョセフ・ピュリッツァーは
1911年に64歳で死去。

彼の功績は大きく死後、ピュリッツァー賞が創設されました。

ピュリッツァー賞は栄誉ある賞として毎年開催されています。

社会的不正義と当局の汚職の摘発こそ、審査を貫く基準である

【ジョセフ・ピュリッツァーの功績たち「ピュリッツァー賞」】

ジャーリズムに革命を起こしたジョセフ・ピュリッツァーの名から取った
ピュリツァー賞はアメリカで最も権威のある賞の一つです。

コロンビア大学が開催し、毎年4月に受賞の発表されます。

ピュリッツァー賞とはアメリカ合衆国における
新聞、雑誌、オンライン上の報道、文学、作曲の
功績に対し授与される賞です。

現在21部門で賞の授与が行われ、
うち20部門は受賞すると賞状と現金15000USドルが贈られ、
ジャーナリズムの公益部門は金メダルが授与されています。

創設されて95年という歴史を持っているこの賞は
米国の新聞王と言われたジョセフ・ピュリッツァーが、
「アメリカのジャーナリストの質の向上」を目的する賞の創設を
遺言に託したことで1917年に設立されました。

応募制となっていて応募資格は、
アメリカ国内の新聞社・通信社に限られています。

しかし報道部門のみ応募資格が
「アメリカの新聞に掲載されること」となっているので
外国人も受賞した過去があります。

日本人でも
ベトナム戦争で銃弾を避けながら河を渡ろうとする母子の姿を撮影した
『安全への逃避』で沢田教一さんが受賞。

審査の基準となるのは「卓越した」ものであるかどうかであり、
ピュリッツァー賞はジョセフ・ピュリッツァーの遺志を継いだ
ジャーナリストのノーベル賞ともいわれる栄誉ある賞なのです。

 

【まとめ】
・ジョセフ・ピュリッツァーはアメリカの新聞出版者でありジャーナリスト
・アメリカ合衆国連邦下院議員にも選任された
・アメリカ相手の裁判で、言論の自由を勝ち取った
・彼の名前からとったピューリツァー賞が死後にできる

報道の自由を訴え、ジャーナリズムに変革をもたらした
ジョセフ・ピュリッツァーの功績は
現代の報道の在り方の礎を築いたと言えるでしょう。

大切なことは、一にも正確、二にも正確、三にも正確である。

1847年4月10日 ハンガリーのチョングラード県マコーで誕生
1864年 中等教育在学中にアメリカへ移住する
     その後ミズーリ州セントルイスに定住し、コロンビア大学修了する
1868年 ドイツ語の日刊新聞「ウェストリッヒ・ポスト Westliche Post」に就職
1869年 共和党のミズーリ州議会議員に選任される
1872年 3,000ドルでポスト紙を購入する
1878年 2,700ドルで「セントルイス・ディスパッチ紙」を購入する
    二紙を統合しセントルイスの日刊新聞「セントルイス・ポスト・ディスパッチ紙」を創刊
1883年 ジェイ・グールドから346,000ドルで「ニューヨーク・ワールド紙」を購入する
1885年 アメリカ合衆国連邦下院議員に選任される
    新聞がアメリカ最大の購読者数になる
1887年 有名ジャーナリスト、ネリー・ブライを雇用する
1890年 ライバルのニューヨーク・サン紙の編集者に
    「信仰心を放棄したユダヤ人」と紙上で攻撃され、健康が悪化
     主筆の職を辞任する
1895年2月 移民街を描いたリチャード・F・アウトコールトの
      マンガ『ホーガン横丁』の転載を不定期掲載で始める
      ライバル紙がニューヨーク・ジャーナル紙を購入する
      ジャーナリズム戦争に結びつくこととなる
1896年 「ニューヨーク・ワールド紙」がカラー化を始める
1903年4月10日 死後の財産のうち200万ドルをコロンビア大学にジャーナリズム学部を創設するために寄付する協定を結ぶ
1909年 ワールド紙でフランスパナマ運河会社に対するアメリカによる4,000万ドルの詐欺の報酬を暴露
    セオドア・ルーズベルトとJPモルガンを誹謗したと起訴されるも差し戻しになる
1911年10月29日 サウスカロライナ州チャールストンの湾の自身のヨットで死去
1912年 寄付のおかげもあり、コロンビア大学ジャーナリズム大学院が設立される
1917年 遺志に基づいたピューリッツァー賞が創設される

アクシスプロファイル簡易診断で、
あなたのスピリットプロファイルを明らかにしてみましょう。
無料で受講