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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ
『セビリアの理髪師』や『チェネレントラ』といった定番オペラを作り上げた作曲家
出生国:イタリア
誕生日:1792年2月29日
命日:1868年11月13日

ジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ

私はつねに芸術の本質、つまり、さまざまな状況における自発性や自然さを愛しつづけてきました。

オペラの定番である『セビリアの理髪師』、『ウィリアム・テル』などを作曲したジョアキーノ・ロッシーニは、
イタリアのアドリア海に面した街ペーザロで生まれました。

音楽一家に生まれたロッシーニは幼い頃から音楽教育を受け、
6歳の頃には父親の楽団でトライアングルを演奏したと言われています。

10代後半でオペラ作曲家としての活動を始め、
1813年の作品『タンクレーディ』と『アルジェのイタリア女』でオペラ作曲家としての地位を確立。

1816年には、24歳の若さでオペラの代表作でもある『セビリアの理髪師』を発表し、
ヨーロッパ中にその名声が知られることとなります。

ロッシーニのオペラ作曲家としての人生は華々しく、
どこへ行っても熱烈な歓迎を受けたと言われています。

同世代の作曲家とも交流があり、
1822年に『ゼルミーラ』の上演のために訪れたウィーンでは、
ベートーヴェンから『セビリアの理髪師』に対する絶賛を受け、
「あなたはオペラ・ブッファ以外のものを書いてはいけません」との言葉までかけられました。

また、フランスの小説家であるスタンダールは、
著書である『ロッシーニ伝』の中で、
「ナポレオンは死んだが、別の男が現れた」とロッシーニを絶賛したと言います。

音楽の言葉はあらゆる世代、国に共通している。

1825年には、フランス国王シャルル10世の即位を記念する『ランスへの旅』を作曲し、国王に献呈。
その結果、「フランス国王の第一作曲家」の称号と終身年金を得ました。

オペラ作曲家として名声を欲しいままにしたロッシーニですが、
37歳の頃に大作『ウィリアム・テル』を作曲後、オペラ作曲家からは引退。

その後、サロン風の歌曲やピアノ曲、宗教作品を作るようになります。

また、美食家としても知られているロッシーニは、
引退後、料理の創作や高級レストランの経営に情熱を燃やしました。

現在もフランス料理でよく使われている「○○のロッシーニ風」は、
このロッシーニの名前から取られたものだとされています。

晩年になると数々の病に悩まされたロッシーニは、
1868年11月13日に76歳で亡くなります。

死後、ロッシーニの存在は長い間忘れられ、
代表作である『セビリアの理髪師』の記憶が強いためか「一発屋の作曲家」としての評判が広がってしまいました。

しかし、1970年頃にはその評価も見直され、
現在ではオペラを代表する名作曲家として知られているのです。

音楽は心で知るものであり、誰でも理解することができる。

1792年2月29日 イタリアのペーザロに生まれる
1800年 ボローニャに移り住み、ボローニャ音楽学校に入学
1810年 フィレンツェで『結婚手形』を初演。オペラ作曲家としてデビューする
1812年 『試金石』をスカラ座で初演。初のヒット作となり兵役が免除される
1813年 『タンクレーディ』『アルジェのイタリア女』を初演。
大ヒットしヨーロッパ中に名が知られる
1815年 ナポリで『エリザベッタ』初演
以後、サン・カルロ劇場の音楽監督となり、オペラ・セリアの傑作を生み出していく
1822年 歌手のイザベラ・コルブランと結婚
1823年 イタリアでの最後のオペラである『セミラーミデ』を初演
1824年 パリのイタリア座の音楽監督に就任
1829年 最後のオペラ曲『ウィリアム・テル』を発表
1836年 音楽界から引退。イタリアのボローニャで隠居生活を送る
1845年 妻のイザベラ死去。
1846年8月16日 美術モデルのオランプ・ペリシエと再婚する
1855年 パリに戻り、著名人を集めたサロンや高級レストランを経営
1868年11月13日 76歳で死去。イタリアのサンタ・クローチェ教会に眠る

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