一人一人が持っている才能を正しく理解し、
最高のパフォーマンスを発揮する社会を作る

一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

アンドリュー・カーネギー
アンドリュー・カーネギー
アメリカの実業家。『鋼鉄王』とも称された。
出生国:アメリカ
誕生日:1835年11月25日
命日:1919年8月11日

アンドリュー・カーネギー

賢い人は、徹底的に楽天家である。

アメリカの鋼鉄産業をほぼ独占し、産業に大きな進歩をもたらした人物として知られるのが、アンドリュー・カーネギーです。

ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とも言われたカーネギーですが、彼は「自分のために富を築く」ことを良しとしない人物でした。

その考えは、彼が書き残した「富の福音」という本にも描かれています。

「富豪は社会に役立てるために財産を使うべきだ」との考えを説いたこの本は、100年以上経った現在でも多くの富豪たちに絶大な影響を与え続けています。

カーネギーはなぜ「鋼鉄王」と呼ばれ、その莫大な財産を慈善活動に用いたのか。

彼の人生を振り返っていきます。

カーネギーの幼少期は、まともに学校に通えないほどの貧困の中にありました。

カーネギーの父は手織り職人をしていましたが、蒸気機械を使った工場での生産に職を奪われ、父は仕事を失ってしまいます。

貧困から脱出するために一家はアメリカに移住するのですが、この時に生活はカーネギーに大きな影響を与えました。

 

「いつか貧困をなくしてみせる」

カーネギー少年は、貧しい生活の中でこのような考えを持つようになりました。

カーネギーは子供の頃からとても聡明な人物であったと言われていますが、そのことがよくわかるエピソードが残されています。

ある日、果物屋の店主がさくらんぼの山をじっと見つけるカーネギー少年に気づきました。

店主は「手のひらで掴める分だけ、さくらんぼを持っていっていい」とカーネギーに伝えます。

しかし、カーネギーは手を出そうとしません。

「さくらんぼは嫌いなの?」と店主が聞いても、カーネギーは「嫌いじゃない」と答えるだけ。

不思議に思いながら、店主は自分でさくらんぼを掴み、カーネギーの帽子に入れてあげました。

帰宅後にその話を聞いた母親は、同じく疑問に思い「なぜさくらんぼを撮らなかったの?」と尋ねます。

すると、カーネギーはこう答えました。

「だって、子供の手より、大人の店主の手の方がたくさん掴めるでしょ?」

この話から、カーネギーは非常に計算高い人物であった事が分かりますね。

チャンスに出会わない人間は一人もいない。
それをチャンスにできなかっただけである。

アメリカに移住したカーネギーは、13歳から綿織物工場で働き始めます。

その後電信局に転職した彼は、非常に働き者であったため、ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットに引き抜かれることとなります。

このスコットとの出会いは、カーネギーが莫大な富を形成する大きなきっかけとなりました。

そのポイントとなるのが「投資」と「寝台列車」です。

 

カーネギーが財産を築くきっかけになるのが「投資」なのですが、この投資を最初に促したのがスコットだったのです。

この「何かに投資する」経験はカーネギーの中で大きな意味をなし、それは発明家のウードルフに「寝台列車」話しを持ち込まれた時にも活かされました。

それまで世界のどこにもなかった「寝台列車」を知ったカーネギーは「これは長期の移動の革命が起きる」と確信し、借金をしてまで寝台列車の会社への投資を決意。

 

結果として寝台列車は大きな成功を収め、カーネギーは多額の財産を築くこととなったのです。

 

その後、南北戦争が勃発。

砲弾や船の装甲に使用される鋼鉄は、一気に需要がのびました。

戦前から鋼鉄業に投資を行っていたカーネギーは、さらなる財産を築いていきます。

やがてカーネギーはアメリカの鋼鉄産業のほとんどを独占することとなり、いつしか「鋼鉄王」と呼ばれる存在にまでなっていったのです。

 

しかし、彼が優れた人物だと言われる理由は、何も事業だけに限ったことではありませんでした。

カーネギーは「金持ちのまま死ぬこと」を恥だと考え、自らの財産を社会のために寄付していたことでも知られています。

事業家を引退したカーネギーは、篤志家としての活動を開始します。

公共の利益と教育の発展に尽力し、アメリカやイギリスなど数カ国に、無料で利用できる公共図書館を設立。

貧しい人間でも平等に学べる環境を作りあげたのです。

移民として貧しい幼少期を過ごしながら、アメリカ史上2番目となる成功をおさめ「アメリカンドリームの体現者」とも言われたカーネギーは、1919年8月11日に83歳で亡くなるまで、慈善活動を続けました。

 

彼は生前で3億5069万5653ドルを寄付しており、のこりの遺産の3000万ドルも、全て基金や慈善団体やなどに贈られたと言われています。

すべてを自分でやりたがり、すべてを自分の手柄にしたがる人は、
偉大なリーダーにはなれない。

1835年11月25日 スコットランドのダンファームリンで生まれる
1848年 カーネギー一家、アメリカのアラゲイニーに移住
1848年 13歳の時に綿織物工場でのボビンボーイとして働き始める
1850年 オハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事を始める
1853年 ペンシルバニア鉄道のトマス・アレクサンダー・スコットが、カーネギーを秘書兼電信士として引き抜く
1855年  スコットからアダムス・エクスプレスの株を500ドルで買う話を持ちかけられる。
カーネギーの母が家を抵当に入れ資金を捻出

数年後、ピッツバーグ線区の責任者となったカーネギーのもとに、ウードルフから「寝台列車」の案が持ち込まれる

1861年 東部の軍用鉄道と合衆国政府の電信網の監督に任命される
1865年 南北戦争終結後、キーストン鉄橋会社を創業
1879年 ダンファームリンに水泳プールを建設
1880年 ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付
1884年 ベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付。組織学の研究所を創設する
1886年 弟と母が相次いで他界
1887年4月22日 ルイーズ・ホイットフィールドと結婚
1889年 アメリカの鋼生産量はイギリスを抜く。その大部分をカーネギーが所持
「富の福音」が掲載される
1897年 娘のマーガレットが誕生
1901年 66歳になり、引退を視野に入れ会社を株式会社化。
3月2日 銀行家ジョン・モルガンらとの交渉でUSスチールが誕生。史上初の時価総額10億ドルを越える企業となる
200万ドルを寄付し、カーネギー工科大学が設立される
1000万円の寄付により、スコットランド・カーネギー基金が設立される
1902年 200万ドルを寄付し、ワシントン・カーネギー協会が創設される
1904年 アメリカ・カナダにカーネギー英雄基金を設立。その後、ヨーロッパと北欧の数カ国にも設立される
1911年 ウィルソン山天文台に257センチ反射望遠鏡建設促進のために1000万ドルを寄付
1919年8月11日 気管支肺炎により、66歳で死去。
遺体はニューヨーク州ノース・タリータウンにあるスリーピーホロー墓地に埋葬される

アクシスプロファイル簡易診断で、
あなたのスピリットプロファイルを明らかにしてみましょう。
無料で受講