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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

アルフレッド・ヒッチコック
サスペンス映画の神様とも称される、映画監督、映画プロデューサー。代表作は『サイコ』など。
出生国:イギリス
誕生日:1899年08月13日
命日:1980年04月29日

アルフレッド・ヒッチコック

長編映画では監督が神であり、ドキュメンタリー映画では神が監督だ。

サスペンス映画の神様アルフレッド・ヒッチコックとは
イギリス出身のハリウッドで活躍した映画監督です。

スリリングであり、
巧みな映画技法で人々を魅了したヒッチコックとは
どんな人物でどんな生涯を送ったのかをご紹介します。

 

【ヒッチコックとは?『サスペンス映画の神様』】

エリザベス2世よりナイトの叙勲を受け取った
大物監督ヒッチコック。

彼は映画のタイトル用イラストの制作をきっかけに
脚本・助監督などを務め26歳で監督デビューを果たします。

急速に才能を開花させたヒッチコックはサスペンス映画の巨匠として
1950年代に黄金時代を築きました。

ヒッチコックの作品は、偶然の連続から起こる強烈な緊張感はもちろんのこと、
彼自身が映画に出演する「カメオ出演」も見どころの一つでした。

予算不足のためやむなく映画に出演していたヒッチコックですが、
それが一部のファンに受け、
作品の中でヒッチコックの姿を探すことが恒例化したのです。

ヒッチコックの作る映画は
特にフランスの若い映画監督達から支持され
1950年代末にフランスで始まった映画運動にちなみ
「ヌーヴェルヴァーグの神様」と呼ばれていました。

晩年まで第一線で活躍し続けたヒッチコックは、
20世紀を代表する映画監督なのです。

駄洒落は最も高度な文学である。

【数々の傑作を生み出したヒッチコックの人生】

代表作『サイコ』など、さまざまなサスペンス映画を制作した
ヒッチコックの人生とは、どのようなものだったのでしょうか。

ヒッチコックは、1899年8月13日
イギリス、ロンドンで誕生します。

一家はイングランドでは少数派のアイルランド系のカトリック教徒で
彼はロンドンのカトリックの寄宿学校に入学し、
そこでは孤独な学生生活を送ったそうです。

卒業後ケーブル会社(W.T.ヘンリー電信会社)に入社し技術部門で
働きながら、
ロンドン大学の美術学科の夜間コースで絵の勉強をしていました。

アメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーのロンドン支社に
映画のタイトル用イラストを売り込み、採用されたことをきっかけに
映画の世界に入っていきます。

初めはタイトルデザインを担当していたヒッチコックですが
徐々に制作に携わるようになり、
1925年には処女作の『快楽の園』を監督するチャンスを与えられ
映画監督としての道が開きます。

彼の手掛けるサスペンス映画は、瞬く間にヒットし名監督となります。

そのころ結婚したアシスタント・ディレクターのアルマ・レヴィルとは
娘を一人もうけ公私ともに最強のパートナーとして
生涯を共にしました。

ハリウッドで活躍し黄金時代も築き
アメリカの市民権を獲得した彼ですが、
映画産業の低迷も拍車をかけ
1964年の『マーニー』以後はやや精彩を欠き制作ペースが落ち始めます。

衰えたといわれたヒッチコックですが、これでは終わりません。

1972年ヒッチコックの復活を内外にアピールする
切れのあるスリリングな映画『フレンジー』を制作します。

しかし体の衰えとは隠せないもので70歳になったヒッチコックは
1976年に制作した『ファミリー・プロット』が遺作となり、
1980年4月29日に腎不全で亡くなります。

ヒッチコクの作った映画のように
名作とは時代を超えて人々に見続けられるのです。

 

【まとめ】
・アルフレッド・ヒッチコックは20世紀を代表する映画監督
・サスペンス映画の神様とも称される
・スリラー映画で成功した
・1950年代に黄金時代を築いた
・1980年1月3日にエリザベス2世よりナイトの称号を授けられる

サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックの作品は
彼亡き後も名作として世界中の人に楽しまれています。

アイデアはあらゆることから生まれる。

1899年8月13日 イギリス、ロンドンのレイトンストーンで誕生
1914年 ケーブル会社(W.T.ヘンリー電信会社)に入社。技術部門で働く
    その傍らロンドン大学の美術学科の夜間コースで絵の勉強をする
    後、広告宣伝部に異動する
1920年 アメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ・ラスキーの
    イズリントン・スタジオで、サイレント映画のタイトルデザインを担当する
1922年 グレアム・カッツ監督の下で脚本・助監督などを手がける
1925年 処女監督作の『快楽の園』を公開
1927年 3作目『下宿人』を公開。急速に頭角を現す
1926年 アシスタント・ディレクターのアルマ・レヴィルと結婚する
1928年 娘パトリシアが誕生
1933年 初期の代表作『三十九夜』を制作する
1939年 デヴィッド・O・セルズニックと組んでアメリカ合衆国で映画製作を行うこととなる
1940年 渡米後の初作品『レベッカ』を制作。アカデミー最優秀作品賞を受賞する
1950年代 ヒッチコック映画の黄金時代
1964年 凡庸な作品が目立ち衰えたと言われる
1972年 『フレンジー』でキレのあるサスペンス演出をし、ヒッチコック復活を印象付ける
1976年 遺作『ファミリー・プロット』を公開
1980年1月3日 エリザベス2世よりナイトの称号を授けられる
   4月29日 腎不全により80歳で死去

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