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一般社団法人綜合ヒューマンスキル開発協会

アルフレッド・アドラー
アルフレッド・アドラー
個人心理学(アドラー心理学)を創始者であり、現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。
出生国:オーストリア
誕生日:1870年2月7日
命日:1937年5月28日

アルフレッド・アドラー

他人からの賞賛や感謝など求める必要はない。
自分は世の中に貢献しているという自己満足で十分である。

アドラーと言えば、2016年に出版された「幸せになる勇気」を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか?

この本は世界累計440万部を超える大ベストセラーとなり、
心理学者アルフレッド・アドラーの名前が広く知られるきっかけとなりました。

アドラーは「個人心理学(通称アドラー心理学)」の生みの親であり、
フロイト、ユングに並ぶ心理学者の一人として知られています。

「個人」に注目した心理学者「アルフレッド・アドラー」の人生を振り返ってみましょう。

1870年2月7日、アドラーはユダヤ人の中流階級の家に生まれました。

ウィーンの大学を卒業したのち、アドラーはレオポルトシュタットで診療所を開業。

アドラーは、遊園地で働く人々など、貧しい患者を主に相手にしました。

患者の中には体が不自由なのに、
大道芸などの力仕事に従事している人もいました。

「人は、自分の弱点を努力によってカバーしようとする」

このことに気づいたアドラーは、「補償」「過補償」の理論を展開するきっかけを得ます。

「補償」「過補償」の理論はやがて「無力な自分を隠すため、必要以上に自分を大きく見せようとする」状態である「優勢コンプレック」を発案するきっかけとなりました。

その後も医者として活躍していたアドラーは、1902年にジークムント・フロイトの研究グループに参加。

精神分析の世界に関わるようになったアドラーでしたが、その考えはだんだんとフロイトの学説とぶつかるようになっていきました。

その結果、アドラーは独立し、仲間たちと自由精神分析協会を設立。

それが「あなたの課題」ならば、たとえ親に反対されても従う必要はない。
自分の課題に足を踏み込ませてはいけないのだ。

第一次世界大戦が勃発し、軍医として従軍することとなったアドラーは、
戦争や多くの軍人を観察し「他者の幸せにより自らの幸せは生まれる」という「共同体感覚」が何よりも大切だと気づきます。

現在でもアドラー心理学を代表する「共同体感覚」は、戦争という過酷な状況で生まれたものなのです。

 

終戦後、世界は子どもの教育について、新しい方法が模索され始めた時代。

新しい考えを持つ考えを持っていたアドラーは、その時代にマッチした心理学者として認知され始めます。

アドラーは「心理学的な知識により、世の中をよくできる」と信じ、精力的に活動。

その努力もあり、アドラーは現代における心理学の第一人者として認めらえるようになったのです。

晩年、アドラーはアメリカとヨーロッパをいく度となく周り、一年の半分を講演とカウンセリングにあてたと言われています。

心理学の世界に大きな影響を残したアドラーでしたが、その死は突然なものでした。

1937年5月。ヨーロッパへの講演旅行の最中、ホテルから散歩に出かけた直後に昏倒。

そのまま息を引き取ってしまいます。
死因は心臓発作で享年67歳でした。

アドラーの遺骨は長らく消息不明となっていましたが、2007年に発見されウィーン中央墓地に名誉改葬されました。

アドラーの教えは多くの後継者が受け継ぎ、現在も世界各地でアドラーの教えを伝える活動が行われています。

叱られたり、褒められたりして育った人は、叱られたり、褒められたりしないと行動しなくなる。
そして、評価してくれない相手を、敵だと思うようになるのだ。

1870年2月7日 ウィーンの郊外ルドルフスハイムで誕生
1888年 ウィーン大学に入学
1895年 ウィーン大学を卒業後、ウィーン2区レオポルトシュタットで診療所を開業
「優勢コンプレックス」の元となる理論を築く
1897年 ライザ・ティモフェヤーニャ・エプシュタインと結婚
1898年 一番目の著書『仕立て業のための健康手帳』を刊行
1902年 ジークムント・フロイトに誘われ、フロイトの研究所に参加
1907年 『器官劣等性の研究』を出版
1910年 ウィーン精神分析協会の議長に就任
『精神分析中央雑誌』の編集長を務める
1911年 自由精神分析協会を設立
1913年 自由精神分析協会を『個人心理学会』へと改称
1916年 軍医として従軍。『共同体意識』の重要さを知る
1922年 児童相談所を設立
1924年 ウィーン教育研究所治療教育部門の教授に就任
1926年 数ヶ月にわたるアメリカへの講演旅行を行う
1932年 ロングアイランド医科大学の医学心理学招聘教授に就任
1935年 一家でアメリカへと移住
1937年 長女ヴァレンタインと音信不通となる(のちにシベリアの強制収容所で死亡したことが判明する)
同5月 スコットランドのアバディーン大学での講演の4日目の朝、ホテルから散歩に出かけて直後に意識を失い昏倒。
病院に搬送される途中で心臓発作による死亡が確認される。享年67歳
2007年 所在不明となっていた遺骨が発見される
2011年 遺骨がウィーン中央墓地に名誉改葬される

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